日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

人目を気にして辻褄を合わせる生活

毎日、辻褄を合わせるように一生懸命考えて生活しています。いわば他人から見ておかしくないように外観を取り繕う日々です。他人から見ておかしくない外観とはどういう外観か。それは、傍目から効率的であったり合理的である外見です。外見、つまり、キョロキョロしないとかモタモタしない、右往左往しないことです。抽象的ですね。具体例に欠けます。

僕は、効率性なんて無意味だと思っています。無意味だと思ったところで、現在は効率性に支配されている時代です。最短距離で動かない人間はおかしい人だと見做されてしまうのです。資本主義が徹底されていて、無駄なく動いてできる限り大きな利益を獲得する考え方が世の中に行き届いています。そういう世の中では、無駄に動いている人々は奇人扱いです。効率性とは遠く離れた無駄なことからこそ、真の創造があると僕は信じているのと、昔から効率的に動けない性分なので、その理由付けを探していました。

もっと自分もしっかり持って、キョロキョロしたり右往左往したりすることも否定しなければ、精神の健康を維持できたのかもしれません。しかし、時代の空気は強大で、抗うには気力体力を要します。今まで僕は、抗いに成功していませんでした。精神は負けてしまいそうです。だいたい、効率的に動けない姿を見て嘲笑する人は、ネット上にしか存在せず、現実世界では本人の居ないところで陰口を言うのが関の山です。陰口は本人に伝わってしまってはその意味を成しませんから、知らないうちは何も言われていないと同義です。何なら、心持ちとして、嘲笑されているであろうと前提を置いておけばいいのです。ダメージは減りそうです。

人目を気にして、効率的に動けない自分を認められず、無駄に生きることに力の入らない、でも、効率的になれるはずもない中途半端な状態を続けるのは、時間の無駄にしかなりません。無駄の何が悪いことかと言いましたが、こういう中途半端な状態は、無駄に生きる場合でも排除すべき無駄です。効率的になれないのなら、とっとと諦めて、無駄に生きることに全力を傾けるべきなのです。

よし、これで少しすっきりしてきました。僕の効率性への疑問は、まだまだ燻っていますが、今日はこの辺で。