日常の雑感

見なれた日常にある"何か"を見つけて記録していきます

新しいものに消極的な性格

新しく出てきたものに消極的な僕の性格だ。たとえば、ニコニコ生放送が出てきた頃、その存在は知っていたが、いろいろと難癖をつけて見なかった。でもやがてハマって本格的に見るようになるのだが、黎明期や萌芽期の盛り上っていく様子を見逃したのは残念だった。最近では、サブスク音楽配信spotifyを日本でローンチする前から知っていたのに、ローンチしても、やはり音質がとか通信の安定性が気になるなどと難癖をつけてあまり利用しなかった。でも使う頻度を上げてみると難癖は難癖以外の何物でもなく、全然問題のないサービスだったのだ。

こういう消極的な性格は、珍しいことではないだろうけど、つまらないと思う。出る杭は打たれる的な古い考え方によっている。決して今風ではないよなあ。新しいもの、未知のものとの出会いは、往々にしてストレスをもたらす。変化に対応するには体力も要る。今の時代はタフだなあ。でもそれに対応できれば、生き易いのかもしれない。

言っていることがおかしいのかわからない

僕の言っていることは多くの場合、人に理解されないようで受け入れられていない。どこがおかしいとも指摘されないので、出鱈目や間違っていることを言っているのか、単に理解されていないのかわからない。そういうことが続いてくると、自分に自信がなくなって、声も小さくなる。ますます言っていることが伝わらなくなる。悪循環だ。

人が信じられなくなってくる。間違いのない、完璧なことを言おうと腐心している。間違ったことを言わないように辻褄がうまく合うように、神経を磨り減らしている。

でも、最近、少しだけ、世界は曖昧な気がしてきた。言いたいことや要求が伝われば、自分でしっかり考えて、完璧とか辻褄を合わせるとかしなくても、相手がある程度はフォローしてくれるのではないかと思えてきた。きっかけは忘れてしまったが。

疲れちゃうな。

疲れちゃうな。疲れの元は仕事だ。長く続けている職場だけど、ときたま人の出入りやなんかがあって、いつも通りにいかなくなると疲れが酷くなる。最近も辞めた人入ってきた人がいて、微妙な空気の変化があった。毎度のことながら、きっついな。しばらくすれば慣れて元通りになるから、時間が過ぎるのを待つしかない。でも大変だ。誰でもこうなのだろうか。僕だけかな。もう何回も経験しているのだから、いい加減うまく対処しろよと思うわけだが、これでも昔よりは軽くなっているような気がするので、あながち学習していないわけでもないようだ。

さあ夜はゆっくり休もう。明日も仕事はあるぞ。

往年の名盤を聴いて。

夕方に歯医者に行くまでの間、音楽を聴いて過ごしている。ケンプが演奏するモノラル時代のベートーベン・ピアノソナタ全集から。17番のテンペスト辺りを聴く。聴きながら、googleで"ケンプ ベートーベン モノラル"と検索。ケンプの演奏は人間味の深いとか、味わいのある、柔かいと言われることが多いようだ。僕の感想はどうか。ご多分に漏れず僕もそう思う。時代を代表するような名盤に、若輩者の自分はまだ自分の言葉を持たない、ただただ平伏すだけだ。

ただ、この名盤は録音から70年近く経っているわけであり、その後に発表された様々な演奏家のいろいろな録音や、社会の変化、環境の変化を考えると、新たな今日的意義なんてものも見出せるのかもしれない。この前読んだ歴史の本によるとそんなこともあるようだ。

同年代と同じだけの時間

たまに昔を振り返っていたたまれなくなる。今の自分は世の30代がしてきているような経験を何ひとつしていないのではないかと。でも、同年代と同じだけの時間を生きてきているのだから、何かしてきたのは間違いない。ボーっとしていることだけでも"何か"の範疇に入るのだから。人と同じ経験か同じじゃない経験かだけの差だ。そうとでも考えなければやっていられない。まったくの平均的人間が存在しないように、誰もが同じ経験をし、人とちがう経験をしている。僕は人と同じ経験が少ないだけだ。

社会のシステムの中でうまく立ち回って生きていくためには、人と同じ経験をしているほうが望ましい。思考回路が共有できるからだ。共有している前提があれば、言っていることが伝わりやすい。皆が同じ方向を向きやすい。僕には無理だ。人と話せば、いつもどこからズレている。共有している前提が理解できていないからだ。

例えば、この記事のように具体的な例を示して説明することなく、抽象的な言葉に終始するのは、読者と同じあるいは似た経験を持っていると思えないことの見本みたいなものだ。

人と同じ経験が少ない。孤独であるが、これでやっていくしかない。強みに変えるなどとはおこがましい。生きているだけで丸儲け。生きていられるとうことは、僕の考えも通用しているということ。そんなに深く考えることではない。

本を読む

本が読めるようになって楽しい。何年か読むことを避けていたのから復帰した。読んだあとは頭の回転がスムーズになる気がする。気分もよくなる。日常的に読んでいたときには気づかなかったことだ。

大学の頃に買い溜めていた小説の積読を崩していく。教養系の授業で教科書として使っていた本も読み返したいな。自由に使えるお金があるうちは新しい本も買いたい。

素直でいるのは

年齢を重ねるうちに、物事・人に素直に接するのが難しくなってきているように思う。いつも素直でいたいと思っているし、できないときは自分が嫌になったりする。歳なんだと思う。老いとか衰えではなく、いろんなタイプの人々に揉まれることによって、不可避的に起こる変化なのだろう。自分だけバカみたいに素直でいることが、それこそバカらしく思えることが歳の数だけ増えてくる。

それでも素直を志向することができるだろうけど、障害となるものが増えてくるだけコストがかかってくる。実際にお金が減るコストではなく、精神が削られるタイプの精神コストだ。コストベネフィットの関係を考えると、素直でいることで得られる何かよりコストのほうが上回ってしまうと、最早、素直ではやっていられない。嫌なタイプの大人となってしまう。

どうしようかな。嫌な大人に成り下がるだけなら簡単だ。なんとか素直か素直の代替的になる歳を重ねた上での大人の良さを獲得したい。まあいつまでも素直なだけの大人もどうかと思うし、余裕とか落ち着きと表現されるようなものがあるのがいいよな。