日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

カップ麺、量少ない。

お昼前、小腹が空いてカップ麺を食べる。少し満たされる。しっかし、量が少ないなあ、おやつ程度の量。メインの食事にするには厳しい量だ。

最近は、価格は据置きで量を減らすコストカットの方法を多くみかける。そのせいで量が少ない。でも、昔より増量キャンペーンも多く見るようになった気もする。これも売り方の工夫なのかな。

製品の量の話はこれでいいとして、なるべくお金をかけずにたくさん量を食べるにはどうしたらいいか。やはり自炊なのかなと思う。カップ麺じゃなく袋麺にして、野菜をトッピング。アレンジ。ガチの自炊とまではいかなくても、少し手と食材を加える。

と、書いてみたものの、自炊云々の話は机上の空論だった。僕の実際の感覚としては、実家住まいの家族の多さで、たくさん作れるスケールメリットのほうが大きい気がしている。加えて田舎なので、庭の畑に旬の野菜もある時期にはある。

自分の実態から離れた話は書けない。

思いの丈from手書きのノート

間違った、望ましくない生活・人生を送っていても、堂々としていればいいのだ。僕には"堂々"が足りない。いつもビクビクしている。間違ったことをしていないか気にしている。少しくらい間違っていても、全体として形を成していれば問題ない。ほとんどの場合は。全体が間違っていても大丈夫なんじゃないかな。生き方を少し考えないといけないのが普通より面倒なだけだ。堂々としていればいいのだ。

 

今回は、手書きのノートの書いていた雑文をそのまま載せました。こんなようなことをいつもノートに書き留ている。

朝に聴く音楽。また、昼間や夕方、夜のそれ。

楽しく音楽を聴くのに、適切な時間帯があるのは知っている。小西康陽氏も朝に聴くものと午後に聴くもの、夕方、夜、それぞれ違うと、著書で語っていた。朝に合う音楽とか夕方に合う音楽というのがあって、その時間帯に合う音楽を聴くのが一番楽しめる。

実際、僕の場合は、朝も夜も同じようなものを聴いている。その時の気分で聴くアルバムを決めているから、同じアルバムでも朝聴いたり、夕方に聴いたりになる。まだまだ音楽について若輩者で、所有しているアルバムの中に、朝のアルバム、昼、夕方、夜の聴き込みによる仕分けができていないのだ。もっとちゃんと聴いて、好きなアルバムの傾向を見たときに、夜のアルバムが多かったとかの偏りがあるかもしれない。それはそれでいい。昼にあまり音楽を聴かなくすれば、夜の楽しく良質な音楽鑑賞時間が際立つ。

そういうのって、いいよね。音楽を聴くのにも、メリハリをつけて。一日中闇雲に聴いているんじゃなくて、メリハリだよね。他の新しい遊びもできる余裕が生まれる。

まずはしっかり聴いて、これは朝だ、これは夕方だとイメージを持つ作業をしよう。

 

わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019

わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム1992-2019

  • 作者:小西 康陽
  • 発売日: 2019/04/19
  • メディア: 単行本
 

 

もはや時候の句

世の中的にはゴールデンウィーク真っ只中だけど、お仕事します。午後から。もう何年もこんな感じで、盆暮れ正月などもお仕事してます。別に何とも思わないですね。何か思うからブログに書いているのかと思われるかもしれませんが、僕にとっては時候の句のようなもので、記事を遡れば、毎度この話をしているのです。

世の中が休みの時に仕事をして、多くの人が働いている時に休む。以前は、このサイクルが出かけるときに有り難かったのですが、このご時世ではあまり意味がないですね。コロナ禍になってから、休日は終日、家にいますから。

実は、コロナ禍になる前から、外に出かけるのが負担になってきて、家で過ごす日も増えつつあったので、stay homeの掛け声にもあまり抵抗なく入っていけたのです。時代を読んでいたわけではありませんが、これはよかった。

と、ここまで書いて急に気が抜けてしまったので、また次に書くネタを探します。さようなら。

シゲティを聴いて思うこと。

昨日の夜、気の赴くままにヨゼフ・シゲティの弾くベートーヴェンのCDを手に取った。聴いていて気分のよい、愉しみを感じる音楽だった。僕は、こういう心持ちを表わす語彙に乏しい。もうちょっと適切な言葉を持っていたらといつも思う。言葉を持っていないから、心の状態を理解できずに、何も感じていないのではないかと錯覚するくらいだ。

音楽は、非言語的な感覚を与えてくるから厄介だ。小説や映画だったら、もっと言葉にしやすいと思う。しかし、言語を介しないで訴えてくる音楽は好きだな。小説や映画は少し直接的過ぎる。それで何もかも理解するわけではないが、読後・鑑賞後の感動が僕には強すぎて日常では楽しめない娯楽でもある。仕事終わりや休日の過ごし方として、音楽鑑賞は言葉から離れられるから丁度いい。

言葉できない、何も感じていないような錯覚が嫌で、音楽はもう止めにしようと思ったこともあったけれど、こういうCDを見つけると続けていてよかったなと思う。

久々の更新

久しぶりのブログ更新である。最近は、ノートのお気に入りの万年筆で考えたことを書いていた。人に見せるほどでもない、どうでもいい考えごとだと思うと、気楽に書けて結構気分よく書けていた。ここで公開するつもりはない。

ブログは人に見られる可能性があるから、書くときはどうも緊張してしまうし、意識もする。広大なネットの世界だから、見つかることは少いとわかっているのに、変に意識して書いて、後で見直すと酷い文章だなと苦笑いしている。見られる可能性は存在するけど、読者登録されている人以外はほとんど見にくる人はいないと考えていいのに。もっと素の自分を曝け出そう。

しかし、素の自分を曝けだすことの意味とは。見られて謂れのない批判にさらされるのが心配だったが、それは、本当にレアケースだとさっき結論づけた。それがなくなった場合に曝け出す意味とは。自己満足の世界か。もし、誰かに読まれて金銭的収入のきっかけが起こったりするというような浅はかな願いか。わからないな。紙のノートにお気に入り万年筆で書いていて何の問題がある。

実は2、3週間の間、ネットから離れていて、ネットデトックス状態にあった。これはこれで快適だった。戻ることもないだろう。しかし、今日、ネットを見ているのは、やはりお手軽な発信手段はネットなんだなと考えたからだ。リアルの人々に会うのも憚られるし、僕はこういうことを考えているだと、普段何も話さないキャラクターの僕が急に言い出しても困惑するだろう。やっぱりネットかな。

と言っても何か書くかはわからないし、書かないかもしれない。今日はこの辺で。

新しい変化がない、深掘りするか

庭の桜がいつの間にか葉桜になっている。4月になったからといって、新しいことが始まわるけではないここ数年。いつも新しい変化を作らなくてはと思っているが、このところ作れていない。2015年に家にBSアンテナを立ててから見始めた野球のメジャーリーグと、丁度それと同じくらいの時期にパソコンのOSをLinuxにしようと試行錯誤を始めたのが最後か。いずれも今も続けていて、知識もある程度深まり形になってきた。そろそろ次の何かを見つけたいところ。刺激から遠ざかるのを避けたい。

まあ、まったくの新しいことでなくても、メジャーリーグでもLinuxでもその中で新しいテーマを見つけて掘り下げていけば十分刺激的だ。いずれも深掘りする要素はまだたくさんあると思う。そういうことなら、もっと前から続いている車で走り回ることや音楽を聴くことだって深掘りできる。

忙しくなりそうだ。