日常の凸凹

見なれた日常にある凸凹を見つけて記録していきます

最近、CDのボックスセットを聴きはじめた理由は

シューベルトの歌曲全集のCDボックスセットを聴きはじめた。

動機は極めて不純だ。聴く音楽を選ぶのが億劫になってきたので、聴くのに時間がかかる21枚組のこの長大なセットにした。

そういう動機なら、Spotifyなどに選ぶのを任せればいいのではないかという声が聞こえてくる。でも、なんか違うんだ。圧倒的な曲数の中から自分に合う曲を探してくれたり、その時間や気分に合わせた曲を見つけてくれるけど、違うんだ。

何が違うのか。やはり大きいのは所有している音源だということなんだろう。所有している音源と、未知の領域から流れてくる音楽とは、聴くときの取り組み方が異なるように思う。実際の感覚として。僕のSpotifyライフだと、流れてきた音楽を意識的にもう一度聴こうと思ったことはほとんどない。自分で検索して曲を再生したときは、何回も聴くことはあったのだが、それ以外の、おすすめされた曲などは一回ぽっきりだ。気持ちいい曲だなと思っても、それだけだ。完全に手軽に消費して終わりの形になっている。

自分のことを古典的なリスナーと呼ぶには歳が若いけども、90年代くらいから音楽を聴きはじめた旧世代のリスナーとしては、消費するだけの聴き方は肌に合わない。かと言って、能動的に音楽を選ぶのにも少し疲れている自分には、長大な全集ものの音楽が今の処方箋になった。

大人になっても中学生時代のまま

大人と呼ばれる歳になっても、遊びや暇な時間の過ごし方は中学生のそれのまま。それも、昔の田舎の中学生。お金もなく、街に出ることも少ない時代。

音楽をかけて、窓から空を見たり、ボーっとしたりして過ごすだけで十分。大人になって、これの何が問題になってくるのかといえば、他にいろんな遊びができるようになってきて、実際に遊んでみるのだけど、その多くが自分のキャパシティを越えてしまって、消化不良を起こすことだ。消化不良で疲れるだけになる。

結局、僕は、多くの遊びがあるのに、中学生時代からの遊びを続けている。音楽をかける、それでさえ、時の経過とともにCDも増やしていったことで中学生時代から見える景色も変わってしまい、戸惑いを感じることがある。純粋な中学生時代の過ごし方を続けていくことは不可能だった。でも、憧れ続けている。思春期への憧れの一種なのだろうか。

退屈だから…することがないから…

退屈だから音楽を聴く。することがないから車で宛もなく走る。インクを買っちゃったから、万年筆でどうでもいい書き物をする。

そういうスタンスもいいなと思う。楽しみたいから何かする、ストレス発散のために楽しいことをしたい、よりも楽。目的がないから、気持ちが楽。暇つぶし。

暇をつぶすなんて、今の効率化された世の中では、暗に避けるべきとされていると感じる。でも、疲れてきたから、楽な考えかたを選ぶ。

大学時代、授業に使った教科書、参考文献が本棚にたくさん

大学の話です。僕が出た社会科学系の場合です。

大学の授業で指定される教科書。これを「買わされる」と思うか、素直に「授業を理解するには必要だ。買おう」と思うかで、授業に臨むスタンスが別れる。買わされると感じる人のなかには、買わされるのが嫌で教科書を用意しない人もいる。

こういう授業の場合、教科書を読んでいれば大抵単位は取れる。"読んでいれば"だ。買わされる思っている人のなかには、買っただけで読まなかった人も含まれるだろう。そういう人は少し単位を取るのに苦労する。

教科書を指定してこないで、授業の度に参考文献の紹介がある授業もある。こちらが難関だ。僕は学生時代、この手の授業は、レジュメやノートで試験対策をしていた。試験では、単位を取れたが、成績は芳しくなかった。今、考えてみると、参考文献までは手が回らなかったのが敗因だ。きっと成績優秀者は参考文献を踏まえた答案を書いていたのだろうと推察する。一部で過去問が流通していた可能性もあるが、僕はその存在に触れることはなかった。

聴いてる音楽をtwitter検索!

今聴いている音楽をtwitter検索することがある。アルバム名やアーティストで検索する。

すると、何年も前の自分のツイートに遭遇する。

そんなに前からこのアルバムを聴いていたのかとか、何年経っても聴いているものが変わらないなと思ったりする。

昔も今もtwitterは検索して遊ぶことに使っているので、自分のツイートはそんなに多くない。これは!と思うことしか呟かない。これは!と思う音楽は今も昔も変わらないんだね。

理想と今できることについて

ブログを書くときに、こういうのが書きたいという理想形がある。でも、往々にして理想はいつまでも理想みたいだ。書きたいものと書けるものはちがうようだ。仕事だって、就きたい仕事と就ける仕事は別なように。

書きたい理想形に近づける気がしないからやめてしまおう。そう考えていた。現状書いている、美しくなく、独りよがりな、ときに意識高い系のような横文字や難しい言葉が登場するような記事は本望ではない。

本望ではないが、僕にはこれしか書けない。今は。

理想に近づくにはどうしたらいいのか。理想に近いと思われる人の文章を読んで分析するのか。勉強するのか。効率的に理想に近づくにはそれがいいかもしれない。

しかし、僕は、あえて泥くさい方法を採ろとう思う。今書けるものをひたすら書き続ける。書きたいものではないが、ここを突き詰めて行った先に光明を見出せる、かもしれない。ちがったとしても、今書けるものは、今しか書けないものだから、今のものにも価値があると考える。だったら、理想と遠くても書き残しておくのもいいかな。

と言いつつ、いつまた書かなくなるかわからないが。

多様化していかないと

多様性が叫ばれる時代だ。マスを相手にするというか、多くの人に自分たちの製品やサービスを売っていくモデルは破綻しかけているのだろう。少品種大量生産・消費から多品種少量生産・消費の時代へ移行していくのが、日々の暮らしのなかでもよくわかる。

働いていても、一つの職場から多くのサラリーを貰うことはできなくなっていく。複数の職を持って、収入の水準を保つことになるだろう。

僕ももう一つ二つ職を持たなくてはならないよな。相互に毛色の違うものがいいな。一つが潰れてもリスクを分散できる。毛色が違うけども、あるところでは相乗効果が使えるようなものがあれば尚いい。

自分が複数の職を持とうとするなら、自分から趣味や消費も多様化させていったほうがよさそうだ。何故って、自分が多様化させていないのに、向こうから多様化されたいくつもの職がやってくるとは考えにくい。そんな虫のいい話はない。

まずは好奇心旺盛に、いろんなものに興味を持つことからなのかな。