日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

今週のお題「2019年上半期」

今週のお題「2019年上半期」

 

2019年前半は、何か新たな発見をいくつもしているとような気がする。"気がする"と言ったのは、ちゃんと記録していないから、発見したことでも忘れてしまっていることもある。たぶん、二度と思い出せないようなアイディアだったら、それほど重要じゃないのだと思う。逆に必要に応じて頭に浮かんでくるレベルのものだったら使えそう。疲れていると必要なときに取り出せないかもしれないから、体調には気をつけよう。

 少し逸れたが、とにかく、去年以前には思いもよらなかった考えをすることがあるのは事実だ。年初から多少、生活環境が変わったから、それが影響しているのかな。割と少しの変化でも、結構変わるものだなと実感している。

ニュースは疲れる、体力が要る。

ニュースは疲れる、体力を必要とすると聞いて、なるほどなと思った。ニュースを見たり聞いたりするのは体力が要るのだ。悲しい事件の話題、日本社会が、世界が直面している問題、知られていなかったけど悲惨な現状がある問題など心穏やかでいられないのがニュースだ。

まがりなりにも社会生活を送るようになってから、ニュースを知る必要に駆られてラジオを聞いたり新聞を読んだりしてみた。ニュースに日常的にさらされていると、心が動くことが多くなった。もともとあまり感情が動かない人間だった。動かすような事態の経験が乏しかった僕は、少し疲れてしまったのか、体調がそれ以前に比べて悪くなったような気がしている。

ニュースと体調の因果が結びつくのは、およそ考えもよらなかったことだ。でも、ニュースは疲れると聞いて、その可能性の存在に気づいた。世の中は情報洪水だ。ラジオやテレビだけでなく、ネットもある。いろんなニュースを聞ける機会が増えている。疲れてしまうなら、自分の耳に入れる情報の量をコントロールする必要がありそうだ。弱っているときは、音楽でも聴いて静かに過ごすとか。

休日の記録

昨日の寝る前から今朝起きて午前中にかけて、バックハウスの演奏するベートーヴェンピアノソナタ全集(モノラル録音バージョン)8枚組のディスク1からディスク4までを聴く。いい演奏だ。いつもいい気持ちにさせられる。32曲もあるベートーヴェンピアノソナタだ。全部入っている全集ともなると、全てが演奏者の思い通り完璧とはいっていないと思う。コストや時間の問題で1曲について何回もレコーディングできないだろうし。それでも、どこから聴いても変わらずいい気持ちにさせてくれる。すごいアルバムだ。

実はディスク4までの道中、同じくバックハウスベートーヴェン・ピアノ協奏曲第4番(51年のモノラル録音)を挟んだ。こちらは、いままでいい気持ちにはならなかった演奏だったのだが、最近よさに気づいて時々聴くようになった。音楽はクラシックに限らず、最初好いと思わなかった曲やアルバムでも忘れた頃に聴くとこの演奏のようになる。買って失敗だなと思ったアルバムでも寝かせておくといいことがあるかもしれない。

あいみょんの「瞬間的シックスセンス」でもそうだったが、初聴きで最っ高だなって思ったアルバムって実はない。マリーゴールドや、ら、のはなしは一発でいいと思ったけど、アルバム全体で好いなと思ったのは何回も聴いてからだ。何回も聴くには、一撃で気に入る曲があって、いわばその曲のついでに流していると他の曲も気になってきて、アルバム全体が好きになっている。いいな。

単純接触効果・シューマン

シューマンのピアノ協奏曲。何か、多くの録音を所有している。聴きたいと思って買ったアルバムにカップリングとして収録されていて、無意識に増えた。

いつもアルバムは通しで聴くから、この曲も自然と聴くことになる。何回も聴いていると、結構いい曲だなと思えてくる。単純接触効果だ。

今日もリヒテルの弾くピアノで、グリーグのピアノ協奏曲のついでに聴いていた。でも、少し気になって、2回目は頭出ししてシューマンを選んで聴いている。

きゅうり美味しい。

きゅうりが美味しい。

今くらいから8月9月くらいまではきゅうりの時季だ。毎日のように食卓に並ぶ。にもかかわらず例年、あまり意識していなかったきゅうりの味。なぜか急にお気に入りになってきた。

幼少の頃、弟が好きな食べ物を問われて、きゅうりと答えていたのを何を言っているんだと思ったのを思い出した。きゅうりのような目立った味もしない水分だけの野菜の何がいいんだと。皮肉にも大人になって、そのきゅうりの良さに気づくなんて。

そうは言っても、きゅうりはこの時季にしか食べない。冬に食べるきゅうりは美味しくない。旬だからいいのかな。そうなると、茄子やトマトも同様だ。それらの良さはかなり前から気づいていた。きゅうりへの先入観が今年のシーズンに入って崩れ去っただけで、やはり野菜は旬に食べるのが一番というところに至る結論。

一般的とか権威

いつも「一般的」と呼ばれることや「権威」と戦っている僕だ。

一般的とは、文字通り、一般の人はどう考えるのか大衆の意見である。かといって、自分も大衆のひとりなのだ。しかし、全ての面において大衆に属するわけではない。自分の意見や価値観を明確に持っている面もある。たぶん多くの人がそうだと思う。

しかし、それが強いと社会との軋轢に悩むことになる。こと、自分の意見が独特で先鋭的であったりして、一般的な意見とは少し離れていると感じる場合は、ストレスを産む。相違の程度より強く一般的な意見を意識するようになる。ポジティブな人は自分のスタンスをより明確にして自信をつけるのだろう。ネガティブな人は自分の意見を抑えて一般的な意見に迎合しようとする。僕はネガティブ寄りで、そこまで自分のスタンスに自信を持てない。日夜ストレスと戦っている。

「権威」も厄介だ。権威は一般的と違いある程度目に見える。権威は、その分野の支配的な見解だ。権威がアレはダメだと言えば、僕を含めその分野に知識や知見の蓄積が少ない者にとっては、権威の見解は絶対的な力を持ち得る。

僕は、権威に影響されて、新しいものに出会う機会を失ったり、柔軟に考えられず行動を誤ったりしたことがある。権威は新しいものに対して否定的である。そして基準となる物の見方をきちんと守ってくるので、柔軟性に欠ける。だから権威に対抗しようと企てる者は、権威の見解を徹底的に分析して粗や欠点を見つけ、自分の新しい見方についても、論理を明確にしなければならない。しかし、通常、正攻法で正面から向かって行っても潰されてしまう。そこで、大衆を味方につけてしまえばいいのだ。一般に受け入れられてしまえば、権威は求心力を失ない弱まっていく。

権威の見解から自由で柔軟な発想を持った、一般の人の先鋒に憧れる。権威や権威に反抗する者でもなく、トレンドを作るであろう一般の人。現代ではインフルエンサーと呼ばれるカテゴリの人々に当たるのだろうか。たぶんそういった人々は、一般的な意見からも自由なのだろう。自分の核があるというか。ブレない核を持った人に僕もなりたい。

まあ、インフルエンサーもやがて権威になってしまいかねない危うさを持っている思うが。それじゃあアーリーアダプタのほうがいいな。

と書いてきたわけだが、そのきっかけは音楽とかオーディオの世界だった。新しい音楽が産まれたのを聞いても、旧来の権威に押されて、それが流行っても認められない精神。ちょっといい音を思って買ったオーディオについても同様。そんな精神への反省です。

蜂は恐い。

暑くなってくる。今は梅雨だけど、やがて暑い夏が来る。こうなってくると、虫が恐怖の対象になる。とくに蜂は恐い。近年、夏になると毎年ように「殺人スズメ 蜂」の特集がテレビで組まれる。住宅の軒下や、ガレージに巨大な巣ができて、それを除去するスズメ蜂ハンターの話だ。

それを見ていると、殺人スズメ蜂は怖すぎ。夏に庭に出て、あの蜂のブーンという羽音を聞くだけで身の毛がよだつ。刺されるのはもちろん嫌だし、もし、家にあの巨大な巣ができていたらと思うと気が気ではない。巣ができてしまったら、除去しなければならないだろうが、自分でするのはどうしても嫌だ。かと言って業者に頼むと結構な金額になると思う。DIY精神が強い家庭で育ったけど、蜂だけは御免蒙りたい。

まだ巣ができたわけではないのに、除去云々を心配しても仕方がないのだが。