日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

シフのモーツァルト・ピアノ協奏曲、初期作品

朝からアンドラーシュ・シフのピアノによる、モーツァルトのピアノ協奏曲集を聴いた。

5番から8番まで聴いた。シフのピアノは、この初期の作品によく合っていると感じた。20番や24番などの有名曲よりいいのではないかと思う。

はじめ、シフのモーツァルトは自分には合わないのではないかと思っていたが、一部だけ聴いて判断してしまったようだ。このピアノ協奏曲集は、5番から27番まで収録されている。一気に全部聴くのは難しい。聴いていて少し合わないからといって、全体の評価にするのは勿体無い。合わないところは一旦置いておいて、他の作品を聴いてみてからにしよう。時間はある。

ジーザス・アンド・メリーチェインで気分が変わった

午前中を終わって、今日はダメな日なのかな、気分が全然上がらないと思っていた。午後からはオフだ。でも、午後イチで聴いた、ジーザス・アンド・メリーチェインの『サイコ・キャンディ』で変わった。ちょっと気分上昇。ダメな日じゃないかもしれん。

ジーザス・アンド・メリーチェイン『サイコ・キャディ』は、シューゲイザーの人みたいな歌い方だった。発売年を見ると、1985年のようだから、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインより前なんだ。浅学な僕は、シューゲイザーというとマイブラに直結されてしまう。歌い方はシューゲイザー風で力のない囁くような歌い方だが、曲は、シューゲイザーのそれより少し軽い感じがする。マイブラだともっと重い轟くようなギターのイメージがある。

シューゲイザーの人たちに影響の与えたバンドなんだろうなと容易に想像がつくアルバムだった。

スピッツ『ハチミツ』は今でも鮮烈

スピッツの『ハチミツ』を聴いている。もう25年も前のアルバムなんだ。

最近、急に「人は17歳の頃に聴いていた音楽を一生聴き続ける」という言葉を意識し出して、その前後、中学生から高校生くらいの時期に聴いていたアルバムを聴き返すことが多くなっている。

素晴らしい音楽たちだ。

別に意識してもしなくても、一生聴き続けるかどうかはコントロールできない。けれども、確かにあの頃の音楽は、僕の中で燦然と輝き続けていて、25歳くらいのときに聴いたときも、30歳を超えてから聴いたときも同じ輝きを保っている。一生聴き続ける可能性は高そうである。

90年代中頃の音楽がバブル状態であったと云われる時期ものが、際だって優れていたわけではないと思う。きっと今の音楽も素晴しいのだろうと思う。現在、17歳の時期はとうに過ぎてしまって30代になっている。その間にも音楽を聴き続け、最早、プレーンな状態ではなくなっている。音楽については、語ることを憚れるほどの語彙しか持たないが、それでも、いくらかの音楽経験の蓄積があった。仮に、プレーンな状態が続いているのなら、いつの時代でも音楽を鮮烈な刺激を持って受け入れることができるだろう。蓄積はときに邪魔をしてくる。音楽を作る人は忘れっぽさが肝心と聞いたことがあるが、聴くだけの人も忘れっぽいほうがよいのではないだろうか。

しかしながら、蓄積は避けられなかった。17歳の頃の燦然とした輝きに憧れて、次から次へとお金を注ぎ、またあの感覚を味わうために新しい音楽を探し続けるのか。あるいは、諦めて歩みを止め、17歳の頃の音楽を聴き続けるのか。後者のほうが経済的であるし、確実である。経済とかの話はナンセンスなのだが、経済力に物を言わせて青春を取り戻す作業も愚かしい。そうしても青春は取り戻せない。あの頃はあの頃として、輝かしかった、人によってはどん底とも思える時期を過ごした17歳の頃を、そういうこともあったなと思い返すきっかけとして音楽を聴くのである。

その論理でいくと、人生の節目節目で聴いていた音楽、どこかへ行ったときの車の中で流れていた音楽というのが考えられる。一般に青春といわれる、17歳くらいの思い出とともに再生される音楽が心地よくて聴き続けるといったことだ。でも、たまに聴いて思い出に浸るくらいで十分な場合も多々あって、一生聴き続けたいとなると、ハードルが上がってくる。だって、日光にドライブしたときの音楽を聴くと、あのとき流れていたなと思うけど、一生の伴侶になるような衝撃的な思い出でもない。心の支えなようなものにもならない。

結局、17歳の頃云々は経験則で、いろいろこね繰り回しても、わからない。皆が思っている、経験する、"当たり前"のできごとを言語化したことに意味があるのだ。

日記。風が強かった。

今日は風が強く吹いた一日だった。家の二階にいると、とき偶、部屋が揺れるようだった。

こういう日には、防風林のありがたさを思い知る。家の周りには昔、けやきかなんかの大きな木がいくつかあった。けれども、雷が落ちて倒れたら大変だとか、台風が来て倒れたら家屋が潰れるとか言って、切ってしまった。大きな木があった頃は、部屋が揺れるようなことはなかったと思う。

切ってしまった木は他にもあって、家の裏にあった篠竹もそうだ。篠竹は、子供の頃、ザリガニ釣りの竿を作るのによく使った思い出がある。切ってしまった理由は、篠竹がある家は貧乏になると祖父母が言っていたからだ。迷信の域を出ないような気もするけど、そういうものなのかと特に疑問にも思わなかった。今考えるとちょっと面白いな。

何が楽しいのか言葉にするのは

いろんな音楽を楽しめている。J-POP、ロック、ジャズ、クラシック。楽しめるものがたくさんあるのは飽きなくていい。

楽しんでいるのだが、楽しんでいるつもりだけなのかもしれないと思うこともある。何が楽しいのか言葉にできないときだ。音楽を聴いた感想を言葉にしようと試みているのだが、これは!というような的を射たような言葉が見つからない。どれもありきたりで使い古された陳腐な言葉ばかりだ。ちょっと幼い考えなのかもしれないが、ちょっと皆と違う感想を言ったほうがカッコいいじゃないかと思ってしまうのだ。

けれども、陳腐な言葉を否定することで生まれる言葉は、全然斬新ではなく、結局、陳腐な言葉のほうに依存している。切り口が同じところなのだ。言い方が変わっただけ。それだったら、ありきたりで陳腐な言葉で語ったほうがボロが出ないように思う。切り口を変えて陳腐な言葉から脱却するには、音楽の場合は、もっとインプットをする、たくさん聴くことが必要なのだろう。これは音楽に限らないかもしれないが。たくさん聴いて新しい発見があるまでは、無理に言葉にしなくてもいいのではないかという考えに至った。

ラジオで音楽を聴く

毎日、朝だけCDプレーヤーの調子が悪い。しかたないので、ラジオをかける。ニュース番組を聴くこともあるが、今日はNHKFMのクラシックの番組にした。

ベートーベンの「ロマンス」や「クロイツェル・ソナタ」がかかった。知らない曲がかかると、こういう曲もあるのかと新鮮な気持ちになり、よく聴いて知っている曲がかかると、ワクワクする。「ロマンス」は聴いたことがなかった。「クロイツェル・ソナタ」は好きでCDでもよく聴いている。自分で選んだものではない音楽が流れるラジオの形で聴くと、CDで聴くのとはまた違った感じを受ける。

お題「ちょっとした贅沢」

お題「ちょっとした贅沢」

 

お題スロットから。ちょっとした贅沢、偶にしてる。偶にじゃないといけないと思うから、特別感を出したいときだけだ。

最近のちょっとした贅沢は…してないのかな?すぐには思いつかない。

…半年に1回、美容室御用達のシャンプーを買うのが贅沢かな。スカルプ的な、いい匂いがするシャンプー。美容室で、髪の毛が細くなってきた感じがすると相談したらお薦めされてから使っている。商売のカモにされるかもと思ったけど、生活の中でひとつくらいいかなと思って始めてみた。髪に腰が戻ってきたし、何より、職場の人など周りからいい匂いがするねと言わる。匂いのせいとは言いすぎかもしれないが、周りの人に良く思われているような気がする。気がするだけでも、変な疑心暗鬼に駆られることが少なくなるので、精神的に楽だ。人間って結構匂いに影響されているものだと実感する。予想外の効果だ。価格は当然ドラックストアで売られているものよりするが、大体の使用できる期間の日割で計算してみると、まあ払えるかなってレベルだから、続けている。