日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

余暇にする遊びについて

余暇の遊びのバリエーションなんてなくていいと思う。いろんなことに手を広げていくと、結局、今日は何をして遊ぶのかわからくなって手詰まりになる。現在の僕がそうだ。音楽鑑賞にMLB観戦、ドライブ、映画・ネトフリ鑑賞と広がってきたら、いよいよ何がいいのかわからない。個々の遊びは素晴しいもののはずだけど、余暇は限られている。全部はできない。仮に余暇が無限にあったとしても、「今」何をしたいかがわからないと何もできない。

マイブームみたいに、一時にどハマりしていれば問題ないのだが、何にもハマっていない状態だと手詰まり問題にぶち当たる。僕だけかもしれないが。深刻に考えすぎなのか。

かつて、バリエーションが少なくて、ほぼほぼ音楽を聴くことしか余暇の予定がなかったときは、こういう問題には無縁で、淡々と音楽鑑賞に勤しむことができた。あの淡々とした生活がよかった。なんでバリエーションが増えていったのか。刺激の少ない生活、新しいものを取り入れない生活は、老化を招くし、だいたい人間がダメになっていくと何処からか聞いてきてからだ。それで焦って少し興味が出ると掘っていくようになった。広く浅く。本当にそれはよかったのか。例えば、音楽鑑賞をとことん追究して深めていくやり方もあるはずなのだ。世界には一生聴いても聴ききれないほどの音楽があり、いままで聴いていた音楽も新しい音楽を聴いてから聴き直すと新しい発見がある。それだけでも余暇を満たすだけの時間がかかる。無理に広げる必要はなかったのではないかと思う。新しい分野に広げるほうが手っ取り早いし、刺激的な感じもする。深く追究していくのは一見地味で、激烈な刺激とは遠い。しかしジワジワ来る。

手っ取り早くできる方法は、誰にでもできる。追究のような時間のかかるじわじわ来る刺激は、よっぽど好きじゃないとできないし、故に好きなものが明確な人以外味わえるものではない。折角、その特殊な境地に入り込める段階にあったのに、みすみす手っ取り早い方法に移るのはもったいない。これから余暇の遊びを選別して極力少なく絞っていく方向に移行する。

すでに支出してしまったお金がある場合はそれが気になるが、そこは埋没原価・サンクコストとして忘れよう。過去に支出してしまったお金は、今、考えが変っても取り戻せない。諦めよう。