日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

コルトレーンのライブ盤を聴く

コルトレーンヴィレッジ・ヴァンガードのライブ盤を聴く。1961年の。これがいい。今日は大きめのボリュームで聴いているが、いままでになかった感激に包まれている。中途半端なボリュームや蚊の鳴くような音量でかけていた時期は何だったのか。このアルバムへの冒涜ともいえる行為だったと思う。

 これまでもこのアルバムを聴いて、いいなあと言っていた。あれはネット記事やtwitterの受け売りだった言わざるをえないような、新しい鮮烈な感激を持って今日は聴いている。

シューベルトの歌曲を聴く。

 運転免許の更新を午前中に済ませたから、午後はオフだ。

 今、シューベルトの歌曲のCDを聴いている。心が落ち着いてくる。シューベルトじゃなくても、歌曲ならヴォルフでもブラームスでも同じような気持ちになるかもしれない。壮大なオーケストラものだったらこうはいかないと思うが、歌曲なら。今日はたまたまシューベルトを聴いている。

心が落ち着くことは、精神が弱りがちな僕には心地よく、必要な時間だ。こういう時間が取れないと、どんどん悪循環に陥ってしまうだろう。

 

音楽戯言

 朝、ラジオでクラシックの番組を聴いた。新鮮な音楽だ。音楽の世界に入り込んだ。いい気持ちがする瞬間だった。

 ラジオで聴く音楽と、CDで聴く音楽では受ける印象がちがう。たまにCDで持っている音源と同じものがラジオでかかるときがあるが、そういう場合でも印象がちがう。これは特に記しておきたい不思議な感覚だ。何故か考えてみる。ラジオでかかる音楽は、リスナーにとって偶然に聴くことになる音楽だ。一方でCDの音楽は、自分で選んでいるから、あらかじめ予定されている。自分の好みや積極的に聴いてみたい音楽を選ぶのだから、聴いた感じはわかっている。否、わかっているというか、聴いたときの心の動きは予定されている。聴き込んだ音楽ならば尚更だ。

 さらに不思議なことがある。たとえば、ラジオで聴く音楽でも、かかるものがあらかじめわかっている場合である。NHKのクラシックの番組では、インターネットの番組サイトを見ればどの曲がかかるか知ることがでる。この場合では、かかる曲がわかっているという点でCDと条件が同じになる。それでも、ちがう印象を受けることになるのである。偶然だけがラジオの特別な感じの源泉ではないのか。何なのか。

  何か、CDの音源というのは、雑に扱いがちになってしまう。物理的なCDの扱いではなく、音源を聴くときの姿勢というか。ちなみに、サブスクの音楽はさらに雑になる。ラジオは真剣だ。耳を傾けている。もう数多くのCDを集めて、好きな音楽を身近に置いている生活が、本当に望んだものなのか怪しくなる。いっそ、CDを全部処分してしまったほうが、音楽を楽しめる環境になるのではないかとさえ思う。趣味における悩みだ。

ネオクラシックな旧車と音楽についてのイメージ

通院の行き帰り、音楽をしばらく聴いていたParliament の Mothership Connection から James Brown の Say it Live and Loud Live in Dallas 1968 に替えた。

 音量は変えていないのに、ベースの圧がすごい。車の外から見てもズンズンいってそうな感じだ。たまにそういう車を見かけるけど、彼等はクラブ系音楽が多いような印象。ファンクは、特に70年代のファンクは見かけないな。自分も音楽を聴きながら走っているんだから、他人の聴いている音楽をジャンルまで詳しくはわからないけど。

 そんな軽い優越感に浸っても仕方がない。僕は僕の好きな音楽を聴いて走る。ところで、素敵だなと思うスタイルもある。90年代のネオクラシックな旧車に純正でついている、あるいは、後付けしたスペアナ満載のデコデコしたCDプレーヤーないしカセットデッキで聴く、90年代または80年代後半のJPOP。さぞ気持ちいいだろうなと思う。イメージだけど。

その時代の車・オーディオで聴く、その時代の音楽はそれに合うように作られているから最高なんだろうな。僕も90年代のゴテゴテしたミニコンポで当時は聴いていたけど、あの頃の感じは今の所有機器では出ない。思い出補正なのか、時代が変わってモノ作りのコンセプトも変わったのかわからないが、今聴いても瑞々しくない。

 では、僕が聴く70年代の音楽は一体なんなんだ。70年代の機器、つまりレコードで聴くほうが最高なはずだ。ということになってくる。でも、その時代のレコードを一から揃えて、プレーヤーも揃えてとなるとコストが果てしなくかかってしまう。ただでさえ貧困予備軍なのに、そんな余剰な資金はない。資金は作ればいいけれど、僕には作る気もない。70年代の音楽をCDで聴く。中古で数百円で売られているものしか買わない。もちろん最新リマスターなどではない。そういうのを聴いて気分がいいのか。悪くはない。最高ではないけど、悪くはない。満足できるレベルだ。身の丈暮らし。

 

 

この頃のヘビーローテーション

 THE BAND の ROCK OF AGES を聴いている。ライブ盤である。聴き始めて何日目になるだろうか。部屋にいるときはずっとかけている。

 特にお気に入りのアルバムというわけではない。目についたからかけ始めて続いている。70年代のアルバムの多くはこういうきっかけでも聴き続けられる強さがある。

 熱気溢れるライブ盤といわれるが、僕には突出して熱いようには感ぜられない。たぶん、僕がライブ盤愛好家で、ほかにも熱演が繰り広げられるアルバムを知っているからだ。そもそも、熱くないライブ盤とはいったい何なのかというくらい、皆熱い。

 では、このアルバムの突出している良さや特徴は何なのか。浅学な僕にはよくわからない。感じられることはあっても、言葉にできない。何が良くて何日も聴き続けているのか。惰性なのか。まあ、豊かな時間を過ごせているからいいけど。

 

Rock Of Ages

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時節と鬼リピートの試み

 朝晩はめっきり涼しくなって、それでも日中はまだ夏日を記録するような今日この頃。

 ドライブするにはいい季節。たぶんみんながそう思うであろうから、週末の今日は出かけるのを控えようと思う。週末に出かけなくていつ出かけるのか。平日に出かけるしかない。基本的に平日が休みの僕の特権だ。平日でも観光地にはリタイアしたお年寄がいたり、そこに至る道路にも仕事で車に乗っている人、トラックなんかがいるけれど、休日の混み合いとは雲泥の差がある。

 ドライブはいいとして、偶の週末での休みをどう過ごすか、だな。もう休みも半分終わって午後だ。午前中はちょっと買い物に行って、その後は音楽を聴いていた。午後もその延長か。

 音楽は同じアルバムをリピートして聴くことにしよう。1枚毎とか何回か聴いた後などにアルバムを替えようと思うと、最初はいいのだが、段々次が決まらなくなってくる。休みの日に音楽を聴いて過ごそう思うと、大抵15時くらいにはネタが尽きて、立ち尽すだけの時間を過ごすことになる。もうずっと同じ過ちを繰り返している。遊びの時間なんだから、過ちで無駄に過ごしてもなんら構わないんだけど、今日は思い付いたので是正していこうと思う。

 同じアルバムをリピートして聴く。何回もリピートする。それを何日も繰り返す。まだ何日も繰り返すかはわからないけど、そうなると新し目の刺激がなくなってくる。それがテーマだ。刺激がなくなって、角が取れていくことを目指していく。新しい刺激は往々にして疲れる。未知のものを受容するからだろう。予想できないものは不安を伴なって体力を消耗する。未知のものが既知のものに変わって、展開を予想できるようになれば、穏やかに音楽と向き合えるように思う。つまらなくなるとも言えるかもしれない。安定したつまらなさを味わいたい。あわよくば、所有盤のすべてをそのレベルにしたい。膨大な時間がかかると思うが、おもしろそうな試みだ。

 

ロック・オブ・エイジズ

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ステレオかモノラルか、あるいは。

この前、バックハウスベートーヴェン・ピアノ協奏曲第3番、第4番のCDを購入した。指揮はイッセルシュテットのものだ。パッと聴いた感じ、かなりいいな。以前、バックハウスのこの曲目は、モノラル時代のベームとクラウスが指揮したものを聴いていて、あまりいい印象を持っていなかった。モノラルなのにゴテゴテする感じがして。録音やマスタリングが気に入らなかったのかもしれない。

いままで何故有名盤であるイッセルシュテットのものを聴いていなかったのか。それはCDを買い集めていた時期、僕はちょっとしたモノラル信奉にかかっていて、モノラル盤をよく買っていたからだ。バックハウスについては、ピアノソナタ全集もモノラルのほうを聴いていた。カーネギーホールのライブ盤も愉しんだ。

イッセルシュテットのものはステレオの時代に入っている。ステレオやモノラルで分けるのが適切かどうかはわからないが、こうなってくるとピアノソナタのほうもステレオで聴いてみたくなってきた。ステレオ録音なのがいいのか、バックハウスがモノラルで録った時より5年〜15年の歳を重ねて枯淡の境地に迫っていったのがいいのか確認したい気持ちになった。