日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

辻褄を合わせる生活に疲れた

辻褄を合わせるようにして暮らしています。論理的矛盾がないように、合理的に、つまり、おかしく見えなように心掛けています。しかしながら、往々にして、自分はおかしなこと言ったりしたりしているように思っています。

新年を迎えるにあたって、そういう生活とはおさらばしたいと、ふと、思いました。辻褄を合わせるようにする生活は、自分というものがない。他人主体の生活です。それも、そもそも存在しない、自分が作った他人がそう思うだろうという基準について、自分を合わせていく生活なのです。そういう生活は、二重の意味で苦しい。ひとつは、"基準"を作ること、もうひとつは、本意ではない"基準"に合わせることです。両方とも非常に神経を使って考える作業になります。

もう疲れてしまいました。疲れは休息で取れるので大したことはないのですが、恐れるべきは、自分をなくすことのほうだと感じています。生活において、主体的な判断ができなくなってしまうことを恐れています。既にいくつかの生活上の行為、人と話すことやお店で買い物をすることなどに辛さを生じています。

最近はそうした軽い困難について、ルーティン化や定型化で対応しています。お店では毎回決まったものしか買わないとか、生活の時間、起きる時間、寝る時間、コーヒーを飲む時間まで決めて、考えて判断する事柄を減らしています。しかし、人との会話については、イレギュラーな要素も多いので、頭を使い、消耗してしまいます。これが課題です。

こうした頭を使って判断する要素を減らすことは、主体性の低下を止めることに繋がるのかまったくわかりません。逆に、頭を使う要素が減ることによって、低下を進めることになってしまうかもしれません。ここは、一時的なものにとどめるのが得策のように思います。今は、疲れている。休息が必要だと考える。休息して様子を見て、主体性がなおも戻らないようなら、次なる対策を考える。こうすることにしてみましょう。