日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

曲のタイトル、覚えられぬ。

 音楽聴いても、曲のタイトルが覚えられぬ。昔よく聴いていた邦楽がやっとだ。全然覚えられない。洋楽やジャズは回数を聴いているアルバムでもわからぬ。例外はクラシック。覚えられる。何せ『ピアノ協奏曲第3番』みたいな感じで、作曲家がちがっても似たタイトルのものが多い。クラシックでも、そういう定型から外れたものは無理だ。バッハのカンタータの中の一曲についているタイトルのようなものはわからない。

 曲タイトルはわからないが、アルバムタイトルは把握している。これまでわからないようでは、聴くCDの識別が本当に難しくなってくる。

 アルバムタイトルが覚えられるのは、音楽をアルバム単位で認識するからだと思っている。しかし、それ以上の認識はしない。そのアルバムタイトルですら、アルバムをCDプレーヤーの皿にセットするまでで、文字などの言語的情報とはおさらばする。音楽が再生されてしまえば、音楽だけが重要で意味のあることであり、その他の付随する言語的情報は価値を持ったものと思えなくなる。

 音楽に身を任せていて、途中、曲が代わっていっても、一つの流れで繋っているので、ちがうものとしては認識しない。

音楽自省

My Funny Valentine / Miles Davis を聴く。このアルバムは15年以上前に入手して、そんなに熱心じゃないにしても聴いてはいた。それでも今回聴くと新しい発見がたくさん見られた。発見どころか、こんな曲、あったんだっけ!?というような新鮮さ。これまで何を聴いていたのか。あるいは、ちゃんと聴いていなかったのではないかと疑うような、新しいアルバムを死蔵していたといっても過言ではないような、新しい感じ。

 でも、こんな感想を持つアルバムが、随分前に入手した物の中かからごろごろ出てくる最近を見るにつけ、以前はちゃんと聴いていなかったんだろうな。聴いたフリとかファッションで聴いていたとか、そういう軽いノリだったと言わざるをえない。別に過去はいいとして、今、こんな素晴しい音楽を感じることができて嬉しい。その一言。

 

 

年末年始の音楽戯言

 年末年始だ。人より少し少ないけれど、いつもよりまとまった休みだ。何をしようと考える暇もなく、音楽を聴くこと一択だ。あとは本は読むかもしれない。お出かけはしないだろう。こういう世間が休みの時は、車に乗り慣れていない人々が跋扈しているから危険なのだ。道も混みがちだ。初詣はほとぼりが冷めてからにする。

 音楽を聴くのだが、少し目が暇なのだ。視覚がね。音楽は耳だけだから。真剣に聴ける時は、そういう感じもしないくらい没入するから気にならないのだが、没入できない時は暇だ。真剣に没入すれば問題ない。では没入すればいいではないか。なぜ没入できないのか。オーディオが悪いのか。話題の没入感満載のオーディオとは程遠いからな。選んでいる音源がよくないのか。気分に合わないものをいくら真剣に聴こうと思っても無理がある。何でも楽しめる自信があったのに、実態はそうではなかったようだ。自信は案外ふわふわしたものだった。気分が重要ということか。

 オーディオを更新するのは、お金もかかるし、第一、僕はオーディオを取っ替え引っ替えするマニアではないから、ポリシーに反する。その選択肢はなしだ。気分に合った音源を選ぶのが現実的な解決策だ。今の自分にしっかり向き合って、自分がどんな気分で、何を求めているのか、しっかり受け止めて聴く音源を決めよう。

音楽との接し方

音楽は救いだ。これがないと精神が安定しない。余計な考えに苛まれることになる。音楽がない世界は想像するだけでも恐しい。今は自由に音楽を聴ける環境にあるが、時折、この環境がなくなったらと思うと気が気ではない。なんとしても維持していかねばならないと思う。主に経済的な問題が影響するのだろうから、しっかり働かなくては。

でも、そんなに気負うこともないんだ。音楽を聴ける環境が完全になくなってしまっても、代わりの何かを見つけるだろうから。仕方がないし、そっちに移らざるを得ないだろう。よくないのは、まだ希望が残っているのに、代わりの何かに移っていくことだ。そこには不満が残るだろうし、救いを代わりの何かに預けることは表面的にはできても、精神の安定には程遠いだろう。

ともあれ、やっぱり今日も音楽を聴いていく。音楽じゃダメなんじゃないかと思ったときもあるが、やっぱり音楽なのだ。

90年代J-POPを今聴く

90年代J-POPを聴く。JUDY AND MARY の THE POWER SOURCE だ。大人になって手に入れた、いいオーディオで聴いている。10代の頃に聴いていたのとは違う音がする。使っている機器も違うし、大人になって感性も進化してきている。退化かもしれないが。とにかく、違う音がしている。10代の頃の郷愁に浸るのは難しい。あの頃と同じ音はしていない。今は新しい音楽として聴いているし、そういうものとして聴くしかない。懐しみはあるけど、新しくもある。

 本や小説では、まったく同じ文字を追うわけだから、郷愁に浸りやすいと考える。でも、実際はそうはいかない。感性が変わっているから、また違った印象を受けることになる。本なんかでもそうなんだから、再生される音自体の影響もある音楽なら尚更だ。

 完全な過去にすがりつくのも難しいんだな。

多くの新しいCDを購入。

 先日、自分への誕生日プレゼントとしてCDを買った。モーツァルトのピアノ協奏曲集を2セットとヴァン・モリソンの『魂の道のり』というライヴ盤だ。モーツァルトのほうは、8枚組と10枚組。ヴァン・モリソンのほうも2枚組なので、CDの枚数的には20枚の増加である。しばらく新鮮な音楽で楽しめる。

 新しい音楽というのは、ワクワクはするのだが、苦手な面もある。何かCD棚の雰囲気が変わってしまって、しばらく戸惑う。慣らしていくのに時間が必要になる。しかし、今回、これだけ多くの新入りが入るとなると、それはそれで清々しいくらいだ。しばらくは新しく買ったものだけをじっくり聴いていくつもりだ。

お気に入りアルバムとは

 まだコルトレーンヴィレッジヴァンガードのライブ盤を聴いている。振り返ってみると、ハマる時期が時折やってくる。その間隔に長い短いの差はあるけれど、確実にやってくる。そういうアルバムのことをお気に入りとか愛聴盤というんだろう。

 ほかにもこういうアルバムはいつくかあって、それはとても幸せなことだと思う。