日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

通院の用事

昨日は二つある通院の用事のうち一つを片付けた。二つとも済ませてしまってもよかったのだが、一つを終わった時点で、もう一つはどうしようかな、気持ちが切れてきたぞ、次でもいいか。と、また次の機会へ先延ばしした。予約でもないし、薬はまだ残っているから大丈夫だ。

もともと先延ばしはしない性格なのだが、今回は先延ばし云々の前にいつ行くかを決めていなかった。一昨日にも行こうと思ったけど結局行かず、昨日も一つだけ。最初からいつ行くかちゃんと決めておけば、こんな逡巡しなくても済んだのに。時間があったら行こうとか、気分が乗ったら行こうというのはよくない。そういうのはなかなか難しい。

まあ、こういうことも偶にはあるよな。昨日だって一つは片付けたのだから、先延ばしだの逡巡だのを気に病むこともないな。あんまりきっちりやっても気が張ってよくないし。深く考えないことだ。

気分の安定

連休二日目。昨日は気分が荒れていたが、今日は落ち着いてきた。音楽を聴いていたら落ち着いてきた。よかった。荒れている気分は不快だからな。

気分の荒ぶりは音楽で解消している。一時できない時期もあったが、最近はまたできるようになってきた。よかった。近頃は新しい解消手段として映画を観るのもよいことがわかってきた。手段がいくつかあるのはよいことだ。

結局は気分なんだな。気分を安定させることで不快じゃなくなるし、たぶん周りの人たちにもよい影響を与えるんじゃないかな。昔は気にしたこともなかったけど、重要なことだ。

よくない音楽

僕の所有する音楽はどれも素敵なものばかりだ。それは本当に素晴しいことなのか。

よい音楽に出会うには、それよりはるかに多くのよくない音楽に触れる必要があるといわれる。よくない音楽をよくないと評価することによって自分の審美眼が磨かれ、好きなものの基準がはっきりするというのだ。これは映画や小説などにもいえることだ。

僕はよくない音楽にちゃんと触れてきたか。いつも自問している。所有している音楽がどれもよい音楽なのだ。ということは、売ったり処分したりして手許にないものがよくない音楽だったのだ。最近は処分することがなくなった。審美眼が磨かれて打率が上がったのか。

以前は「名盤」という言葉に弱く、すぐに飛び付いてしまう傾向があった。名盤という触れ込みを信じることで、よくないものを効率的に避けてはいなかったか。けれでも、昔の音楽で名盤とか何らかの名盤的なキャッチコピーが帯につかないものはあるだろうか。昔の音楽でも、現代に売ろうとしているものにはそれ相応の仕掛けがある。だから、どれでも差はないとも思う。

名盤の文句に誘われて手に入れた音楽でも、気に入らないで売ってしまったものもあるから、文句はきっかけに過ぎない。審美眼や、好きなものの基準を形作るのに効率的になったかは疑問だ。それなりによくない音楽にも触れていたのだろう。

twitterとtumblr

twitterリツイートするのは気が引けてしまってできないのに、tumblrでのリブログは何の躊躇いもなくどんどんできるのは何故なんだろうか。

もっとも、tubmblrでもリブログするのは画像だけで、テキストを含むものはリブログしていない。テキストを引用するのに躊躇いがあるようだ。

テキストは重いよなあ。人の考えそのものだからな。画像は一見直接的に見えるけど、考えていることは直接には表わさないから、少々軽い。

気分について

気分よく過ごせない日々だ。気分がよい状態とはどんな感じだっただろう。忘れてしまう。

気分がよくないという先入観、漠然としたイメージがあるのかもしれない。イメージに押されて、気分がよい瞬間があっても、ないと結論づけているだけなのか。

 

映画の中に登場する映画を観る

宅配レンタルDVDでバルジ大作戦を借りた。借りた理由はダイハード3で主人公のジョン・マクレーンが観たと言っていたから。ダイハード3は小学生の頃に観た作品だけど、バルジ大作戦のくだりは覚えていて、どんな映画だろうと気になっていたんだ。

このあいだ借りたウディ・アレン監督作品で人生万歳とレイニーデイ・イン・ニューヨークには、いずれの作品にもアメリカの古典小説である風とともに去りぬが少し引用されていた。ウディ・アレンと風とともに去りぬには関係があるのだろうか。影響を受けているとか。

映画を観はじめてから日が浅い僕でも、他の映画作品や小説、音楽などからの引用がなされた映画をよく見かける。よく映画を楽しむには予備知識や教養の類が必要だといわれるけど、こういう引用が行われるからなんだな。