日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

12月20日 喋れなくなってきた

 疲れなのかな、全然喋れなくなってきた。うまく喋れないのではく、自分でも何を言っているのかわからないレベル。何を言っているのかわからないのが自分でもわかるから、ストレス。何か話しかけられても、意味不明なことしか返せない。なぜって、何も思わないからその場に合ったような返答をしようとしている。それがうまくいかない。会話が必要な場面、仕事上の会話ときは、単語をいくつか組み合せたような言葉を発すればなんとかなってしまう環境で助かっている。

 そう、喋れなくてもなんとかなっているのだ。疲れているのなら、疲れが癒えるまでその環境に甘えてもいいのではないか。無理して正確に話しをしようとする必要はないだろう。

スタッドレスタイヤに履き替え

今日は暖かく風もなくいい天気だったので、車のタイヤ交換をした。来る真冬に向けてスタッドレスに履き替えた。この前の夏タイヤへの履き替えから自分で交換してみている。今回でまだ2回目。前回は緊張して不安だったが、段々慣れてきた今回は楽しくできた。よかった。

12月17日 疲れが溜っている

 僕は非正規労働者だ。疲れが溜っている。将来が不安でお金のことが気になって、休みの日はどうしたら副収入が得られるか考えることに費していた。けれど疲れてしまった。休みの日に心身ともに休まらず、非正規ながらも本業にしている仕事で精彩を欠くことが多くなってしまった。今の本業をしっかりこなしていかないと、本業のほうが危うくなる。とりあえず休みの日はしっかり休もう。不安な将来がやってきて、にっちもさっちもいかなくなったら、そのときはそのときだ。ただ今できることは誠実にこなしていく癖を持っておいたほうがいいと思っている。

12月16日 アウターがない

 寒い!冬本番。今朝、僕の住む地域は今年一番の寒さ。月並な話題だけど。

 寒くなって問題がひとつ。まともな冬のアウターを持っていないことに気づいた。コートや外套がない。田舎住みで、冬でもヒーターを効かした車移動。駐車場から少し我慢するだけで暖い店内に入れるから必要性を感じなかった。でも、外のイベントは困るよなあ、これからの初詣やもしや行くかもしれないイルミネーション鑑賞とか。

 

12月15日 自分のふつう

何年か前に職場で休日の過ごし方の話題になったときに、僕は一日中音楽を聴いていると言った。職場の人には、本当に音楽聴くだけ?とか、正気の沙汰じゃないとまで言われた。当時は本当に音楽を聴くだけだったし、他の人がどんな休日を過ごしているのか知らないし、興味もなかったから意外だった。

それから少しずつ音楽との暮らしがおかしくなっていった。音楽を聴くことについて考えるようになった。自分がブレてきて、お金の使い道もよくわからないものに使うようになってしまった。そして一番の問題は音楽が楽しめなくなっていったことだ。

音楽が楽しめなくなって、大きなストレスを感じることが多くなった。解消の術を失なったのだから仕方がない。何回もまた音楽を楽しみたいと試みたが、考えれば考えれるほど自然ではなくなって袋小路に入ってしまった。あれから4、5年経つがまだ戻らない。ほかの趣味に移ろうと試してみたが、興味が移ったわけではない出発点だとなかなか難しい。失ったものを補うための趣味の移行は、焦ったり効果を狙いすぎたりでうまくいかない。

他人の何気ない一言でこの数年苦しんでいる。自分の常識は他人の非常識といわれる。とはいうものの、自分の普通が他の人から見れば普通じゃないと指摘されるのは、自分の生活のバランスを大きく崩すことになる。

12月12日 みかん

みかん狩りをした。

庭にあるみかんの木から収穫した。実が甘くなって食べ頃になると鳥が食べにくるので、その前からどんどん我々が穫っていかなくてはなくなってしまう。

穫っていくが、高いところの実を穫るのは危険だから鳥にやる。脚立などを使ってもいいのだが、怪我をしたらシャレにならない。わが家では先日、母が夕暮れの畑で野菜をとっていたところ、転んで怪我をしてしまった。久し振りに感じたことだが、怪我の生活への影響は大きい。母はいろいろと不便があるようだ。そんなになるくらいだったら鳥にくれてやるほうがいいのだ。

方言がよく出るようになった

また気まぐれに書いてみる。どんな文体で書いてたっけ?まあなんでもいいや。

最近、話すときに方言がよく出てしまう。おじいちゃんがよく使っている言い回しをすることが多いのだ。特に家族と話しをするときに出る。職場では出てこない。悪いことではないのと思う。このほうが楽だし、思っていることを適切に表わせる。

たまに近代文学の名著を読むと、こういうおじいちゃん言葉の言い回しをしている。昔の人は文学的な話し方だったのか、近代文学が書かれた当時の話し方はこういうものだったのか。でも、心地良く、心情を的確に表す言い回しが多いように思う。現代の人の表現は、単語に集約しすぎている。○○的とか○○感とか機微の表現に乏しい。多くのことを簡単に表現してしまう。かと言っていまこうして僕が書いている記事も色彩豊かといえばそうではない。言葉を操ることの難しさを感じる。

たぶん、方言やおじいちゃん言葉をよく使ってしまうのは、祖父母の影響だと思う。昔の言い回しに触れられたのはよかったと思う。