日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

12月7日 夜のよくない夢をなんとかしたい

 このところ、夜、よくない夢を見る。朝起きて、あっ、夢だったんだと安堵するような夢。日中の生活は、精神状態も安定して落ち着いているのに、夜は憂鬱だ。なにかストレスでもあるのかな。以前は逆で、眠っているときは夢すら見なくて、日中は不安だったり幻聴的なものがあったりと不安定だった。どちらがいいかと言えば、日中に落ち着いていたほうがいいのだが、なんとか改善できないものか。

 夜、寝る前に聴いているラジオはちょっと刺激が強くて、気分が高まってしまうことがあるから毎日聴くのはやめようかな。社会の問題を扱う番組で知見が深まって結構気に入っていたのだが、少々ヒートアップしてしまうきらいがある。眠りに悪い影響があるかもしれない。

 気持ちの落ち着きは何物にも代えがたく、どうにか手に入れたい。薬に頼らず生活習慣を整えることでなんとかしたい。

12月7日 濃密な世の中への抵抗

 濃密な世の中だなと思う。効率化が進んで、危険なことや手間のかかることは機械がやったり、じっくり考えられた仕組みを運用することで人間に多くの時間ができた。時間ができても、ボーっとしたり、眠ったりする時間は増えない。新しい効率化の仕組みを考えたり、趣味に没頭したりして時間の不足感が増えるばかりだ。それは望ましいことなのか。やっぱり人間は勤勉な性質で、進化を止められない。時間を作り出すことに成功しても、時間の使い方の方向はひとつ、よりよい生活のためだけに使う。現状に満足できず、無駄に使うことができない。楽をするために時間を作ろうと試みているのに、いつまでたっても楽をできないジレンマに陥っている。

 最近の言説で、いかに無駄な時間を過ごすかが創造性の鍵というのがある。みんながみんな創造性を持つ必要はないが、濃密過ぎる世の中に無駄とされる時間の意味がある可能性を知った。ボーっとする時間があってもいい、何もしないでいていい。効率性が支配する社会では、忘れ去れがちな考えである。むしろ、濃密さが増してきた今こそ無駄とされる時間の意味が見出されたわけであるが。

 濃密な世の中で、無駄とされる時間を過ごすのは勇気がいる。社会から淘汰されるのではないかと不安が付きまとう。淘汰されるは言いすぎにしても、周りの人は趣味の見聞を広め、仕事の準備に余念がないなかに、ボーっとしているのだから、それなりに置いていかれることもあるだろう。しかし、超長期的に見れば、周りの人ができない、「何もしない」時間を持ったことが有用になることもあるだろう。濃密さに負けずに本当に何もしないことができるのならば。

12月7日 穏やか

 とても穏やかな気持ちになっている。昨日帰ってきたくらいから。何かに焦ることもなく、訳のわからない不安に苛まれるわけでもなく、落ち着いた心持ちになった。なんと、快適な気分であることか!

 反面、日頃気持ちを落ち着けるためにやっていた余暇の過ごし方をする必要がなくなってしまった。何もすることがない。それはそれでよいが、趣味とはどういう存在なのかを考えさせられる。日々のささくれだった気持ちをなだらにするのが趣味というならば、日常的に穏やかに過ごせる術を身につけた人は、趣味を必要としないのではないか。趣味を暇つぶしとするのであれば、この考えは当たらないが、目的を持った趣味とすれば、目的を達成する他の術があれば、必ずしもそれは趣味である必要はないのだ。

 今の穏やかな気持ちを維持できるかわからない。どうして穏やかになったのかもわからない。もし、これから気持ちが乱れたときには、やはり趣味にすがることになるだろう。要因が明確にわからない以上、多くの人が採っている一般的な手法を試さざるをえない。

 簡単に気持ちが切り替わるスイッチがあればいいのだが。

12月6日 糸が切れたように

 仕事から帰ってきたら、糸が切れたように何もする気がなくなってしまった。何をして過ごせばいいかわからない。こんな日は珍しい。することがない日はあるにはあったのだが、ここまでというのは珍しい。でも、少し無理していたのかもしれない。音楽を聴くのにしたって、どのアルバムを聴けばいいのかわからなくなってしまうのもこの系統の問題だ。

 思えば、何かをする、能動的に動く必要があるのか。能動性が求められる世の中ではある。仕事では能動的に動かなくてはいけないと思う。だが、オフタイムには受け身で過ごしてもいいのではないか。家に帰ってきてリフレッシュするために何かをする。趣味のことなどをする。それを強迫されるようにしてしまう。これは健全な方向とは思わない。テレビをダラダラと見たり、ラジオでもいいけど、受け身で考えずに楽しめる娯楽が必要だ。

12月6日 伝えたい相手がいることについて

 特定の誰かに伝えたいことがあるのは素敵なことだと思う。ここで重要なのは、「特定」というところ。ネットの世界などの、誰でもいい誰かではなく、顔の見える特定の誰か。もし、顔が見えなくても、その人の趣味嗜好、立場などの情報を元にしてこちらから伝えられることを考えられること。

 以前、ネットで誰かの役に立つブログが書ければなと思って、何が役に立つのだろうと考えはじめてみた。それは結構大変で、需要とか自分の供給できるコンテンツはあるだろうかと考えたら、何もないんじゃないかと思ったくらいだ。たしかに何もない。あとは伝えかただとか、内容じゃなくて誰が言ったのかが重要なんだとか、わけがわからなくなってきてしまった。

 最近、ある小説家の言葉で、自分の小説は愛する人への手紙だというようなことを聞いた。ほかにも、クリエイターの人が、自分の子供を笑顔にするような作品を作っているとか、特定の誰かのための作品が多くの人の心を動かすことはままあるようである。

 残念なのことに、今の僕にはそういった特定の人は思いつかない。僕は何も伝えることがない。ただ自分の周りに流れている情報を眺めているだけだ。そのなかから「あの人に教えてあげたいな」と思う情報をピックアップして伝えてあげられればいいのだが、相手がいない。孤独と定義できる状況かもしれない。

 相手がいない。では未来の自分に向けて手紙というか、面白いと思っていることを残していこう。ちょっとモチベーションとしては弱いが、しかたがない。

12月6日 させられ感

 何をするにつけ、やらされてる感、させられてる感が激しい。ごはんを食べさせられている。ネットを見せられている。仕事で面倒なことをやらされている。以前は感じなかった感情だ。戸惑う。世の中の人の多くは、仕事はやらされていると感じていると思うが、以前の僕はそういう感情はひとごとだと思っていた。最近はやらされを実感するようになった。

 変わってしまったんだと思う。鬱的な傾向なんだろうか。毎日ダラダラと惰性で過ぎていく。傍から見ればちゃんとやっているように見えるかもしれないが、気持ちはダラダラしている。つまり、生活が受け身になってしまっている。自分で主体的に何かに取り組んでいる感覚に乏しい。主体性がないから、やらされているとかさせられているとか思うんだと思う。例えば仕事でも、ミスをすると上の人から注意されるからしないようにするというインセンティブでは受け身になる。ミスをすると、それをフォローするのに時間や費用がかかるからしないほうがいいと考えると、ちょっと進んでやらされている感覚が減ると思う。

 惰性で生活しているのはよくないと思う。何かをするにも、その"何か"をするのが必要だからすると意識していきたい。ごはんを食べたいから食べるでもいいし、仕事をするときに途中でお腹が空いてしまうからしっかり食べるでもいい。なんとなくで生活するのをやめたい。

12月5日 暖いけど

 12月に入ったのに暖い。昨日なんて全国の観測地点の4割で12月の最高気温を更新したそうだ。こう暖いと車のスタッドレスタイヤへの履き替えをいつにするか悩む。まだ先でも大丈夫なのかな。

 と、言いつつ今夜には寒くなってきて、週末には真冬の寒さになるという。雪の少ない地域だからスタッドレスタイヤはまあいいとしても、今度は寒暖差で身体が疲れそう。ラジオの天気予報でも寒暖差に注意と言っていたし。気をつけよう。