日常の凸凹

見なれた日常から、なにか気づけたら

強くなりなよ、と言っている

 今日は音楽を聴けなかった。ショックなできごとが立て続けに起きて、精神的な余裕がなかった。ショッキングなことがあると聴けなくなるなんて、自分のなかでの音楽の立ち位置は緩衝材のような刺激をやらわげるものではなかったようだ。そういう存在であって欲しいと思っていたのだが。

 苦しい心持ちだ。助けがほしい。でも、それは音楽じゃなかったようだ。ショックから少し時間がたって、精神状態は安定してきた。家族と話したり静かにひとりの時間を過ごしたりして落ち着きを取り戻した。僕は音楽について少し幻想を持っていたようだ。思うほど音楽は万能ではなく、すべてを解決してはくれない。解決してくれると信じていたが。

 なんでもかんでも音楽に頼っちゃいけない、強くなりなよ、と音楽は言っているのかもしれない。

間隔を空けずに聴いていく

 ブランクがあるとよくない。

 一時期、理由は何だったか忘れたが音楽を聴くのをやめていたときがあった。それから少したってまた聴きはじめたとき、自分がどんなアルバムを持っていたのかまるでわからなくなってしまった。CD棚にはちゃんと並んでいるはずなのだが、わからない。どんなアルバムがあるかわからないので、どれを聴けばいいのかもわからない。いつも音楽を聴いていたときにはなかった感覚だ。

 似た例を見た。僕は、野球をよく見る。プロ野球で、リリーフのピッチャー、特に勝ちゲームのピッチャーが大差のついた試合で出てくることがある。それは、登板間隔が空くと試合勘が薄れてしまうため、あまり間を空けずに投げたほうがいいからである。

 音楽も聴くなら続けて聴いていかないと不調に堕ちてしまう。ダメになってしまって、新しい楽しいことを探すのも体力がなくて辛い。それなら続けていったほうが楽だ。

頭で考えてもダメだ ー 音楽について

 衝動的である。衝動的に音楽を聴く時代を終わらせてしまった。いろいろ理由をつけて、頭で考えて、もう終わらせなくてはダメだと結論を出した。この結論に至るのはすでに何度目か。

 しかし、終わったあと翌日にはまたCDプレーヤーにCDをセットしている自分。何なのか。やっぱり未練たらたらなんじゃないか。止められないんじゃないか。たぶん、本当に飽きてしまってなら、頭で考えるまえに聴かなくなるんじゃないかな。ごく自然に普段の生活から消えていく。それが何度も復活してきているのなら、まだ飽きていない、やめられない。

 ブログでも何度か音楽はもうダメだ聴けないとか、やっぱり聴くんだとか繰り返していて優柔不断であると映るかもしれない。辛くて止めたい理由もあるし、聴きたくて仕方がなくて聴き始めてしまう事実もある。どっちなんだ。両方である。止めたいときもあるし、聴きたくなるときもある。どちらかに決める必要ないのではないか。

音楽からいろいろ考えすぎ

寝る前にジャズトゥナイトというNHKFMの番組を聴いた。ジャズを紹介する番組である。僕はジャズは好きだが、ジャズ好きというよりかは、音楽全般にアレルギーがない感じだ。そのほうが適切。
CDで聴く音楽がプレーヤーの不調でリラックスして聴けない。こんな時にラジオの音楽番組は助かった。プレーヤーを修理したり新調する予算は出せないし、でも不調で体調まで良くなくなってくるし、音楽、もう終わりかとなっていたから。
もともと、3,4年前からオーディオの不調は続いていて困り果てている。音楽を聴くのもやめてしまおうかと何度も考えた。その度に、やることないしなとか積み重ねた蓄積がもったいないとか言って復活してきた。それは正しい答えなのか。もう飽きてしまっているのではなかろうか。死んだものを愛好する趣味なのか。それは強すぎな喩えだが、気持ちは死んでいる。

何十年もひとつのものを追究している人に憧れる。むしろ、そうならなければならないと強迫されるくらいだ。でも無理だ。自分には難しい。世の中には真逆のタイプの人もいて、どんどん新しいことに挑戦していくのに楽しみを見つける生き方もあるようだ。こちらもパット見苦行で、年齢との戦いである。始めるのが遅いのが問題なのではない。新しいことが見つからないし、ちょっと興味があっても何かしら理由をつけて始めない。加齢による経験値の蓄積と保守化が大きい。どんなものか予想できてしまって動かない。
毎日淡々と暮らせればこんな悩みは生じないんだろうな。自分はどうするか。淡々っていいよね。いろいろ考えすぎなのかもな。いっそ淡々志向でいくか。

モゴモゴ喋りの理由は

 喋りがモゴモゴしていて、何言ってるかわからない自覚のある僕。言ってることがわからなくて何が悪い。ええ、よくないんだけど、必要な連絡事項は伝わっているようだ。だから別にいいんじゃない?

 だって、言葉を発している場面はほとんどどうでもいいことで惰性である。興味がないことばかりだ。ただ間が空いているから心にも思っていないことを言う。熱が入っていないからモゴモゴ。だと思っている。

 モゴモゴするのは自分に自信がないからとよくいわれる。そんないつもすべての事柄について自信を付しながら話をするのだろうか。僕はそんなに好奇心を持っていない。どうでもいいことは本来は話したくない。

 寡黙なほうが性に合っていると思う。

田舎の閉塞感、低刺激性の良さ。

 田舎の閉塞感を感じるけど、感じかたの問題だとも思う。
 田舎って計画して遊ばないと何もなく時間だけが無駄に過ぎていくらしい。たしかにそう。無駄な時間に浪費に焦っていると閉塞感を感じる。逆に無駄な時間こそこれからの豊かな心の生活の肝だと思って、でんと構えていれば閉塞感はなくなると思う。この社会の効率性に抗うのである。生産性のないことをしよう。刺激に溢れた街ではできないことだと思うぞ。ただ、田舎でもインターネットを覚えてしまうとできなくなってしまうけど。

稲刈りの季節なんだな

 近所の田んぼで稲刈りがおこなわれていたようだ。もうそんな季節なんだ。そういえば、昨日の夕飯のメニューは栗ご飯だった。栗は母親の実家の山で採れたものだ。田舎なんだな。

 工場の倉庫で働くより、家の一画にちょっとした畑を作って旬のものを食べながら暮らしたい。田舎の広い家の利点を生かして。必要なだけの現金収入は確保しなければならないから、完全隠居生活は難しいだろうけど。