日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

日常使いの言葉

自分の使っている言葉が、使おうとして頭に浮かぶ言葉が、結構古風なものな気がしている。この前も、家族でパパイヤってどんな果物だっけ?という話になったとき、僕は、「南洋のアレじゃない?」と言った。(ちゃんと調べてみると、メキシコとかカリブ海のほうのものらしい)この「南洋」という言葉が出てくるのだ。「南洋」って…思えばあまり聞かない言葉である。そのほかにも日常の生活の中で、近代文学に出てくるような単語がよく出てくる。急に例示せよといわれても、日常のことは意外と出てこないのだが。たぶん、幼少の頃に祖父母が使っていた言葉遣いの影響もあるのだろう。僕は、特に文学に親しんだわけではないので、そちらのほうが大きいと思う。

 

と、いうような事を書いてみたものの、自分の書く言葉は、そこまで古風ではないような気もしている。「古風」であることを話題にしたものだから、意識してしまったのかもしれない。普段書いている文も読んでみよう。

6月12日 音楽日記

今日も仕事は休みだ。午前中は、PHISHポール・サイモンサンボマスターを聴きつつ、ネットを見ていた。

いずれのアルバムも聴いて感じること、思うことはあったのだが、まごまごしているうちに泡のように消えてしまった。思ったことはすぐに書き留めておかないと。思い出そうとしてももう無理だ。後の祭りだ。

たまに間に合って、ノートに書く段になったとき、こんなことを書いている自分がやっぱり恥かしくなる。歳もあるのかな。思春期くらいの時期だと気にせずできるんだろうな。

ぼーっとしている。

今日は休みだ。最近の休みの日はぼーっと過ごしていることが多くなってきた。いいことだ。有意義な一日を過ごさなければ、何かしないと無駄になってしまうという半ば強迫めいた焦りが薄くなってきている。

 

ぼーっと過ごすのは楽だ。楽しくもある。ぼーっとしていても、急に何か閃いて、書き留めたりしている。楽しい。ぼーっとするのが創造的な時間であると云われることのいい例である。

 

ぼーっと何をしているのか。矛盾するような問いだ。主に音楽を聴いている。本当に何もしていない時間もある。今日の音楽は、今のところPHISHFrank Zappaだ。長いアルバムを緩く聴いている。

twitterを契機に

twitterは見ないほうがよかった。さきほど、今CDプレーヤーで再生しているアルバム、アニー・フィッシャーのモーツァルト、ピアノ協奏曲第24番についてtweet検索したのだ。そうすると、何年の誰と組んだ録音が素晴しいとか、LPで聴きますとか、自分の知らない世界の話が繰り広げられていた。僕はなんともいえない劣等感を感じた。

 

こういうことは今まで幾度もあって、いつも気分を損なっていた。では、何故、僕はtweet検索をしてしまうのか。おそらく、自分の聴いているアルバムについて、あれいいよね、とか、ただアルバムの名前が出るだけでも、俺、わかってるんじゃんと得意気になれるからだと思う。共感を得たいのか、浅はかなことだ。自分がいいと思ったら、その時点で紛れもなくいいアルバムなのである。他の人が同調しようがしまいが、答は決まっている。そこにまっすぐに進めないのは、音楽好きとして、自分がまだひよっこで自信が持てないのだ。だからネットの"上級者"の人の意見を真に受けてしまう。もしかすると、見えない"上級者"の人も誰か権威のある人の受け売りをしているに過ぎないかもしれないのに。

 

では、気分を損なうのは何故か。単に知らない話題が繰り広げられているからだ。いつもtwitterの意見は浅いとか、先ほども受け売りだとか思っているが、それさえも自分は知らないのである。僕はいつも話題の中心でいたいのか。知っている話題だけ見たいのか。それは子供の考えだ。知らないのであれば、調べたり勉強したりすればいいだけのことだ。

 

今回、アニー・フィッシャーを聴いた。他のピアニストの録音も聴いたことがある。モーツァルトの音楽を自分はどう聴くのか、モーツァルトとはどんな音楽なのか、朧げながら自分の中のモーツァルト像が徐々にできてきている。音楽教育を受けたわけではない僕でも。そこでアニー・フィッシャーはどう表現したのか、ハスキルどうか、シフはどこを重視するのか。そういったことを僕なりに見つけていければ、twitterで気分を損なったりすることは少なくなるのではないか。

小さなスピーカー購入譚

小さなスピーカーを買った。ネットに繋げてSpotifyや家のNASの中の音楽が聴ける。僕は、割と本格的なオーディオも持っているのだが、精神衛生上の問題が生じてしまって、使いたくなくなってしまった。

 精神衛生上の問題とは、部屋からの音漏れの懸念とういうか、隣室の弟からクレームあが出るとか、不快な思いをさせてしまわないかという心配。聴いている音楽が漏れ出れることへの恥かしさの2点に集約される。しかし、今現在、一度たりともクレームを言われたことはない。

クレームが出ていないまでも、出ることを気にして音楽を聴くのはつまらなく、いい音が出るオーディオを使ってもまるで意味がない。

そこで、小さなスピーカーを耳元で使えば、音漏れの懸念も少なくなるのではと考えた。音漏れを完全に防ぐにはヘッドホンをするのが一番だが、頭に装着するのは圧迫感という別の問題を生ずる。やはり小さなスピーカーだ。アンプ内蔵のもので、ラジカセみたいなものでも可だ。

でも、そもそもの問題として、スピーカーの購入は、音が漏れ出て、クレームが来てからでも遅くはなかったのだ。何故、問題の欠片さえない段階で、お金をかけて対処をしなければならないのか。先に手を打つというか、事なかれ主義もいいところだ。そんな自分が嫌になる。音が漏れる、うるさい、と、コミュニケーションの発端にもなってかえっていいことなのではないのだろうか。ただでさえ共通の話題がなく、話すことも稀な弟である。相手の感じるであろうことをあれこれ推し量って、波風立たぬように対処するより、クレームを言い易い雰囲気と、それを受け入れる度量を持ったほうが効率的で、社会的存在の人として健全なのではないだろうか。

朝、早く起きすぎた

朝、早く起きたものの、気分が悪い。今日ももう夕方だというのにちっとも治らない。一日を無駄にした感が強い。もとはといえば、早く起きすぎで睡眠時間が足りなかったのだ。別に早く床に就いたわけでもないのに、朝4時半くらいから起きていたのだ。ちょっと目が覚めて、外はもう明るいのか、たまには早く起きてみようと思ったのがよくなかった。早朝の「あつまれ!どうぶつの森」の世界はどんなものなのかと、朝からゲームをしてみたりした。今日は一日が長く使える、何をしようかと意気揚々としていたのが、一転した。

 

もう近頃は睡眠時間が短いと全然ダメで、5時間未満になってしまった日には、今日みたいな状態になることはわかっている。毎日をいい気分で過ごすためには、ちょっと身体に気を遣っておくことが必要なのだ。いい気分で過ごせることはとても幸せであるとこの歳になってわかってきた。早く寝ようとは思わなくても、最低限このくらいの時間に寝ないと次の日が気分よくなくなるというラインには収まるように寝ようとは思う。

 

お金が給付されるようだが。

オーディオのアンプを新調してもいいかなと思っている。新型コロナウイルスの関連で給付されるお金もあるから、それにもう少し足せばいい物が買える。

新調すれば、さぞかしいい音がするだろう。でも、二の足を踏んでいる。購入候補のアンプは、今使っているものと比べると価格差が7倍近い。結構なグレードアップだ。おそらく音の変化に驚くことになるだろう。

その変化をいいものと捉えることができるか。今使っている格が下のアンプの、チープな音が聴けなくなることは少し寂しい。たぶんあの少々安っぽい音は、あのアンプでないと出せないもので、グレードアップ後には聴くことはできなくなる。なんだかんだ言って、あの音が好きなんだな。

となると、グレードアップは、格下アンプが壊れてしまってからでも遅くないような気もしてきた。