日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

人目を気にして辻褄を合わせる生活

毎日、辻褄を合わせるように一生懸命考えて生活しています。いわば他人から見ておかしくないように外観を取り繕う日々です。他人から見ておかしくない外観とはどういう外観か。それは、傍目から効率的であったり合理的である外見です。外見、つまり、キョロキョロしないとかモタモタしない、右往左往しないことです。抽象的ですね。具体例に欠けます。

僕は、効率性なんて無意味だと思っています。無意味だと思ったところで、現在は効率性に支配されている時代です。最短距離で動かない人間はおかしい人だと見做されてしまうのです。資本主義が徹底されていて、無駄なく動いてできる限り大きな利益を獲得する考え方が世の中に行き届いています。そういう世の中では、無駄に動いている人々は奇人扱いです。効率性とは遠く離れた無駄なことからこそ、真の創造があると僕は信じているのと、昔から効率的に動けない性分なので、その理由付けを探していました。

もっと自分もしっかり持って、キョロキョロしたり右往左往したりすることも否定しなければ、精神の健康を維持できたのかもしれません。しかし、時代の空気は強大で、抗うには気力体力を要します。今まで僕は、抗いに成功していませんでした。精神は負けてしまいそうです。だいたい、効率的に動けない姿を見て嘲笑する人は、ネット上にしか存在せず、現実世界では本人の居ないところで陰口を言うのが関の山です。陰口は本人に伝わってしまってはその意味を成しませんから、知らないうちは何も言われていないと同義です。何なら、心持ちとして、嘲笑されているであろうと前提を置いておけばいいのです。ダメージは減りそうです。

人目を気にして、効率的に動けない自分を認められず、無駄に生きることに力の入らない、でも、効率的になれるはずもない中途半端な状態を続けるのは、時間の無駄にしかなりません。無駄の何が悪いことかと言いましたが、こういう中途半端な状態は、無駄に生きる場合でも排除すべき無駄です。効率的になれないのなら、とっとと諦めて、無駄に生きることに全力を傾けるべきなのです。

よし、これで少しすっきりしてきました。僕の効率性への疑問は、まだまだ燻っていますが、今日はこの辺で。

マタイ受難曲の抜粋版を購入

バッハのマタイ受難曲のCDが届きました。長いマタイ受難曲。通常はCDにすると3枚組の量になるアルバムなのですが、今回は抜粋版を購入しました。抜粋だと1枚にまとめられていてコンパクトに楽しめます。コンパクトでも荘厳なマタイですから気軽というわけにはいかないですけど。

昔は3枚組でも通して聴く体力と時間があったのですが、最近では、時間は兎も角、体力のほうが続かなくなってきていました。そんなところでコンパクトな抜粋版が欲しいなと思っていたのです。

抜粋版もいくつかの種類がありましたが、今回は定番のリヒター盤58年録音にしておきました。

可能な限り大音量で

音楽。昔のアルバムで「可能な限り大音量でお聴きください」と注意書きされているものがあるようです。例えば、マイルス・デイヴィスの『パンゲア』と『アガルタ』のレコードには書いてあるらしい。(僕の持っているCDには書いていない)このほかにもそう書いてあるアルバムはいくつか存在するようです。

おそらくそのアルバムの魅力を最大限味わうための配慮なのでしょう。もののサイトによると、レコードの特性と長時間録音の影響云々と言われていますが、それを通り越して、制作者の熱さが感じられませんか?

大音量で聴け、と。それも可能な限りの。住環境が許す限りの、と書いているアルバムもあるようです。大音量で聴かないとこのアルバムは楽しめませんよと。

たぶんCDやハイレゾの今の時代では、うまく調整して気持ちよく聴けるようにできるのでしょう。レコード時代ならではの粋な計らいですね。

きっかけは貴重

音楽。ラジオでグラミー殿堂賞にジョニ・ミッチェルの『青春の光と影』が追加されたと聞きました。それに合わせてこのアルバムからの曲もかかっていたので、そうだ、聴いてみようとCDで聴いてみることにしました。

こう、何かのきっかけを得て音楽を聴くことは以外に多く、逆にきっかけがないと聴くことのない音楽も多いです。普段、音楽を聴く習慣を持っていても、そのときどきにマイブームがあって、聴くものに偏りがでてきます。偏っていくうちに、聴いていないものは忘れていってしまうのです。きっかけは最早、所有しているけど新しい音楽との出会いとも言えるくらいです。

また、何かニュースを聞いて、それにまつわるアルバムが手元にあることに、20年の音楽鑑賞生活によって蓄積された所有アルバムの多さを感じます。まあ、サブスクの時代に所有アルバムの多さはまるで意味のないことなのですが。

レビュー読みすぎ

去年か一昨年に買ってちょいちょい使っている、パナソニックのラジカセ。CDの付いていないラジオとカセットだけのラジカセ。

そして今更、ネットでこのラジカセのレビューを読むと、高評価だらけ。自分の持ち物の評価がいいと気分がよくなって、いくつも持っているラジオ受信機の中でこのラジカセの使用頻度が上がりそう。

でも、そういうのってどうなのだろう。他人がいいと言ったから気分がよくなる。そこに"自分"はあるのか。自分はどう思うのかが抜け落ちているのではないか。レビューに書かれていることを自分の評価と混同していないか。確かに僕もこのラジカセはいいと思う。青春を過ごした90年代フレーバーな音質で、好きな音だ。そこが気に入っている。僕の評価はこうだ。一部のレビューと被る部分がある。そりゃ感性が似ている人とは似た評価になるだろう。いろんなレビューを見ていると自分が思っていることと他人が言っていることが混ざって訳がわからなくなってしまう。

ストロングゼロ的音楽

ストロングゼロ的な音楽があると思うのです。ストロングゼロといえば、とりあえずすぐ酔える安酒の代名詞です。その音楽版ですぐアガることのできる音楽があるんじゃないかと。そういうのって、AIの技術を使えば、人の手に依らなくても作れるのではないでしょうか。音や音楽の構成と気分の関係を分析すれば、気分を操作するような音楽も作れそうです。

ストロングゼロ的な音楽は、即効性は高いのですが、ストロングゼロと同じで悪酔いします。お酒ではないので、次の日に響くとかではありません。次の日に響くどころか、数時間後には忘れて思い出せないような印象の薄いものがあります。生活の中で最近の歌を口ずさむことがありません。浸透していないんですね。僕の過ごした90年代の音楽が強烈すぎただけなのでしょうか。強烈でも即効性は感じませんでしたけど。

感想を考える

感想を言うことができません。唐突ですが。

例えば、今、CDプレーヤーにキース・ジャレットの名盤「ソロ・コンサート」がかかっていますが、誰かにその感想を聞かれても答えることができないと思います。何故か。「ソロ・コンサート」が評価に値しない駄作だと言うのではありません。純粋に、自分の身の処し方を考えると即座に答えが出せないのです。身の処し方と言うのは少しオーバーな言い方かもしれませんが、つまり、立場を考えてその場で求められていると思われる感想を勘ぐってしまうのです。僕は音楽の評論家ではなく市井の愛好家なだけです。自由な感想を持つことを許されているのです。しかし、幼少時からの習慣なのでしょうか、これを言ったらまずいとか、こう言えば好感を持たれるだろうかと考えてしまうのです。

音楽に限らず、あらゆることにそういった邪推をしてしまい、本当に自分を守ることばかり考えているのだなと自分でも思います。よく、こういう空気を読んだ"感想"を考える原因は学校教育にあるのだと言う人がいますが、どうなのでしょう。

といいつつも、単純にボキャブラリーの不足が原因かもしれないですし、音楽に関してはちゃんと聴いていない場合もあります。一般に評価の高い作品であっても、自分の胸に響かないものもあります。一方で、響かないものに無難は感想を言うのも、処世術として必要でしょう。また、インターネットのように多くの人の目に触れる場所で感想を述べることはリスクを伴います。ポジティブな感想ならともかく、ネガティブな感想を持ったとしてもそれをインターネットで述べるのは、不要な中傷を受ける可能性があるので避けたほうが無難でしょう。けれども、ポジティブな感想、無難な感想ばかりの世界は不健全で気持ちが悪い世界です。政治的な駆け引きなしに自由に感想が言い合える、気心が知れた仲間がいる人・場がある人は幸せでしょう。