日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

興味のあることにリスクヘッジはしない。

気になったもの、面白そうな遊びをはじめるときに、気に入らないリスク面白くないリスクをヘッジする行動を僕は善しとしない。レビューを読んだり、評価を見たりしないで、まず試したいと思っている。

かつて、音楽に出会うためにネットを徘徊していた時期があった。特に参考になったのは、昔の2chの「最強のライブアルバム」というようなタイトルのスレッドだった。そこでは、各々がいいと思うアルバムのタイトルだけが羅列されていた。たまに一言付け加えられたものもあったが、ほとんどがタイトルだけのレスだった。僕は、そのスレッドを最初から読み、気になったタイトルのアルバムを購入していった。タイトル以外の情報はほぼなく、誰かがよかったと感じたものと信じてタイトルの響きだけで買うものを決めていた。

そして、結果として多くの素晴しいアルバムに出会うことができた。よくないものかもしれないリスクを取ったのがよかった。

 

見栄を張った音楽との接しかた

見栄を張って音楽を聴いていた。俺はこんなに通な音楽を聴いてる、違いのわかる俺はカッコイイと、周りの人を意識した音楽の聴き方をしていた時期があった。これは音楽に対する冒涜である。

20代の頃は、独り、誰とも共有することなく音楽を聴いていた。周りにどう思われるかなんて気にする由もなかった。30代になって、引きこもりから脱し、職場など人のいるところに属するようになると、周りを気にするようになってきた。周りに人がいるからだ。音楽はその象徴的なものだ。周りの話題になる音楽は、流行りのものばかりだったので、みんなが知らない音楽を知っている俺はカッコイイと思うようになった。遅れてきた中二病みたいな感じだ。

周りを意識した音楽の聴き方は、俺の体調をおかしくしたようだ。次第に音楽が聴けない状態になったり、ほかにも心身の調子がおかしいなと思うことが増えてきた。ストレスだと思う。自分が思った通りに音楽を聴けないことによる。体調不良と音楽の相関があるのかは不明だが、時期を考えると、あながち間違えではないように思う。しかし、それは自業自得だ。自分でそうありたいと思ったからそうなったのだ。結果としての体調不良。

それにしても驚きだ。音楽がこれほどまでに自分の中で重要なウェイトを占めていたとは。たかが音楽、されど音楽だ。自分の聴きたい音楽を聴くようにしよう。気分にあった、流れに沿った、テーマを設けてなど、なんでもいいから、守るべきは他人基準で聴かないことだ。

カラオケ会から帰ってきた譚

今日は職場の人とカラオケ。10人くらい集まった。社員・アルバイト・派遣の垣根は、この会では存在しない。音楽好きと歌うのが好きなのが共通項の人達なだけだ。

やっぱり、学生だった頃によく聴いていた、流行っていた曲が多くなる。世代が違う人も集まったけど、やがて分断が起きた。違う世代の歌はわからない。こうなると、スケールメリット。規模の大きい世代の集団が優勢になる。

カラオケひとつとっても勢力図が描かれる。おもしろ。

分断は進んでいくだろう。同世代だけで行こうという言い出す人がでてきた。

ネットでは、同じ世代・属性の者同士が集まると、カルト的思想が産まれ拡散して危険だと言われる。いろんな世代・属性のごちゃまぜの集団のほうが、革新的な意見が醸造されていいらしい。究極的には、孤独を避けるために、そういう世代ごちゃまぜの集団に属するのが、精神の健康に良いらしいのだ。

カラオケ会を分断させずに、違う世代の曲を勉強して、自分の世代の曲の素晴しさを布教していこう。曲間のおしゃべりでも、その人の人となりを知ることができる。こういう身近なところから、世界を広げていこう。

行って帰ってくるだけのお出かけに音楽。

湘南新宿ラインに乗って、埼玉の北のほうから神奈川の平塚辺りまで行ったことがある。海に行くとか観光するのではなく、ただ行って帰ってくるだけ。ホリデーパスみたいな乗り降り自由なお得な切符を使って行った。

道中はずっと音楽を聴いていて、その時は、チャック・ベリーのベスト盤だったの覚えている。行きも帰りもずっとチャック・ベリーをリピートしていた。とくに好きだったわけではなかったけど、あの頃は、いろんな音楽を手当たり次第聴いていた時期で、たまたまそれだった。

ひとりで宛もなく出かけたときでも、音楽があればそれだけで思い出となって、後になって思い返すことが多い。移動手段が電車から車になった今でも思い出は製造され続けている。

夕方の国道50号を走るときのスティービー・ワンダーのインナービジョンズの1曲目はなぜか最高だった。そのあと、家でまたかけてみたけど、そんなでもなかった。家のオーディオのほうがお金をかけているのに。

とにかく、お出かけには音楽は必須だと思っている。それも、そのとき適当に選んだアルバムが最高に輝くから不思議だ。逆に、これを聴こうと意気込んで用意しておいたアルバムは、途中で気分に合わず聴くのが辛くなってしまうことがある。そうなると、お出かけは最悪だ。そのあとに来たアルバムも大抵合わず、失敗なお出かけとなる。

いい旅は音楽とともに。たくさんの思い出がストックされていく。行った場所の思い出はあまりないのに、道中に聴いていた音楽の思い出ばかり。

音楽とアレルギーと歴史の理解

音楽にアレルギーを持った記憶がない。初めてきくジャンルでも、拒絶感なく許容はできる。そして、許容して聴き続けているうちに楽しくなってくる。おかげで多くのジャンルの音楽を楽しめる耳になってきている。クラシックでもジャズでもアンビエントでも。ジャンルを挙げればキリがない。

でも、新しい時代の音楽にはついて行けてない。僕は先鋭的なものに対して少し慎重で認められないきらいがある。要するに、リスクを取らずに何回も再発されるような名盤ばかり聴いている。どのジャンルでも。そうなれば、多くの人が拒絶感を示したような、奇盤というか刺激的なアルバムに出会う確率は少ないはずだ。

時代を切り拓くような先鋭的なものを聴いて、新たな時代を作っていくリスナーのひとりになるのが、現在を生きる音楽ファンの使命だというなら、僕は音楽ファンではない。しかし、音楽ファンのひとつの形態として、昔の名盤を聴きまくって、音楽が辿ってきた歴史を体系的に理解する愉しみもあっていいと思う。僕は、そっちを指向する音楽ファンだ。

音楽は、とくにレコード文化は、ほかの学問の分野と違って、書物に頼らずとも、歴史を自分で組み立てて理解することができる。自分で実際にアルバムを聴いて、そのアルバムが影響を受けた、あるいは与えたジャンルやアルバムを見つけていく作業は、それはそれで楽しい。

家に誰もいない。

今日は仕事が休みだ。

今日に限って家には誰もいない。精神的な負担を感じる。負担?ふつうは一人で気兼ねなく過ごせていいものだろう思うのかもしれないが、俺には負担に感じる。

寂しいのではない。突然の訪問者に対するプレッシャーがあるのだ。うちは、僅かならが農業もしているので、農事関係の人も来ることがあるし、その他、役をしていることもあるから結構人が訪ねてくる。そして、そういうこと全般は俺にはどうなっているかわからない。その対応に、プレッシャーがある。精神的に脆さを持っている俺に限ったことだけど。

わからないことは、話だけ聞いて、家族に伝えればいいだけのことだ。プレッシャーに感じなくてもいいのは頭ではわかる。でも、そこは脆さのせいなんだろう。上手くやらねば、と深く考えすぎてしまう。もっと、軽く構えていればいいのに。

「WALKING IN THE RHYTHM」がよかった

フィッシュマンズの『宇宙 日本 世田谷』を聴いていた。

アルバム後半の「WALKING IN THE RHYTHM」に感動しちゃった。アルバムを最後まで聴き終わったあと、次のCDを選べず、しばらく余韻に浸った。

この曲はライブアルバムの『男達の別れ』にも入っていたっけ?ちょっと棚を見てこよう。

入ってる入ってる。あのライブアルバムもこの曲とか、後半のたゆたう感じが何とも言えず好きで、クルマで聴くのも最高なんだよな。

フィッシュマンズといえば、『LONG SEASON』も好きだな。雨の日によく聴いていたっけ。雨に合うアルバムだと思って。スピッツの『ハチミツ』が梅雨に合うみたいな記事を書いたことがあったけど、『LONG SEASON』もなかなか。

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