日常の凸凹

見なれた日常の記録です

話しかけるのが上手くない

家族や職場の人たちに話かけることが上手ではない。気軽に話しかけられない。向こうから話しかけられる分には、親しく会話することができるけれど、自分から話しかけることはあまりない。なんと受け身なのことか。この根底には圧倒的な不信があるように感じている。

僕はそこに環境的要因を見る。うちの家族の男ども、父親も祖父も受け身な感じだ。自分から積極的に話しかけるのを見たことがない。幼少の頃の僕に対しても、あるいは大人の年齢になった僕に対しても話しかけてくることはほどんどなかった。たまに用があって話しかけてくる時も、どこかぎこちない。僕も父親らの影響を受けてしまっていると考える。

話しかけるのが上手ではないと認識しだしたのは、最近のことだ。今の職場でも、最初の頃は話しかけていくことに抵抗はなかったし、話しかけていた。家族とも問題なく話せていた。そう考えると環境的な要因に答えを求めるのはおかしいような気がする。いつからか話しかけるのに意識してしまうようになったのだ。

かつては不信はなかったように思う。当時は自分のことを取るに足らない人間だと思っていたから、不信も信頼もなく、諦めていた。だから捨て身でコミュニケーションができていた。それが職場に慣れ、仕事に慣れて人からなまじ信頼されている感覚を味わいはじめた。それからおかしくなっていったような感じもする。人から信頼されるのはありがたいことなのだが、それは、信頼されなくなる恐れを孕んでいた。信頼される心地よさを知ってしまったので、それを失なう恐怖を連れてきた。

また捨て身になりたい。人間関係を上手くやろうと欲をかかない自分に戻りたい。背信的であったりモラルを欠いた行動は慎むべきだと思うが、人の目を意識しすぎて不信になるのはこれまたよくない。人に揉まれると変わっていってしまうのだろうか。