日常の凸凹

見なれた日常から、なにか気づけたら

12月7日 濃密な世の中への抵抗

 濃密な世の中だなと思う。効率化が進んで、危険なことや手間のかかることは機械がやったり、じっくり考えられた仕組みを運用することで人間に多くの時間ができた。時間ができても、ボーっとしたり、眠ったりする時間は増えない。新しい効率化の仕組みを考えたり、趣味に没頭したりして時間の不足感が増えるばかりだ。それは望ましいことなのか。やっぱり人間は勤勉な性質で、進化を止められない。時間を作り出すことに成功しても、時間の使い方の方向はひとつ、よりよい生活のためだけに使う。現状に満足できず、無駄に使うことができない。楽をするために時間を作ろうと試みているのに、いつまでたっても楽をできないジレンマに陥っている。

 最近の言説で、いかに無駄な時間を過ごすかが創造性の鍵というのがある。みんながみんな創造性を持つ必要はないが、濃密過ぎる世の中に無駄とされる時間の意味がある可能性を知った。ボーっとする時間があってもいい、何もしないでいていい。効率性が支配する社会では、忘れ去れがちな考えである。むしろ、濃密さが増してきた今こそ無駄とされる時間の意味が見出されたわけであるが。

 濃密な世の中で、無駄とされる時間を過ごすのは勇気がいる。社会から淘汰されるのではないかと不安が付きまとう。淘汰されるは言いすぎにしても、周りの人は趣味の見聞を広め、仕事の準備に余念がないなかに、ボーっとしているのだから、それなりに置いていかれることもあるだろう。しかし、超長期的に見れば、周りの人ができない、「何もしない」時間を持ったことが有用になることもあるだろう。濃密さに負けずに本当に何もしないことができるのならば。