日常の凸凹

見なれた日常から、なにか気づけたら

自分は何か持っているのかの問い。

 人生についての問いである。自分は何を持っているのか、今までの人生で何を手に入れたのか。この問いのきっかけは、自分は何も持っていないんじゃないかと気になったことである。もしかしかたら、何も持っていないかもしれない。

 

 みんなは何を持っているのか気になって、インターネットで検索しようとした。が、思いとどまった。これは個々人がそれぞれに答えを出す問いであると考えたからだ。もしかしたら、答えが出るころにはもう人生は残り少なくなっているかもしれない。そうなれば、それは僕のライフワークだったということだろう。

 

 いくつか、問いに答えるための念頭に置いておかないければならないことがあると思う。これは相対的なものではないというと。既に血肉になっている場合は、ふつう過ぎて最早、言葉に還元するのが難しい状況になっているかもしれないこと。言葉に還元して認識しても意味がない可能性も否定できないことなどか。

 

 問いに答えるには、クリーンな状況を想定しなければならない。実際にクリーンにしなくても、想定するだけで目的は達成される。ここでは、クリーンじゃない状況を作りだしている阻害要因を見つける作業が必要になる。すなわち、自分を思考停止状態にする、標準化されたシステムを意識的に見つけるのである。具体的には、マニュアル化さされている仕事や、「ふつう」のロールモデルを模倣するだけの生活である。それらを取り払ったところに自分が持っているものが浮きあがってくる。

 

 どうでしょう。自分は何か持っているのか、流されて聞こえのいい謳い文句を自分のものとして主張してしまう痛さがある人なのか。