日常の雑感

人生の途中経過を記録していきます

休日、気持ちの萎えは避けたい

 今日から連休なのに1日目の午後にはやることがなくなってしまった。午前中は音楽を聴くことに集中できていたのだが、途中、CDが音飛びして気持ちが萎えてしまった。それから退屈している。退屈だからといって時間を無駄に消費するのは避けたい。時間は有限だからどうのみたいなビジネスで使われる考えではなく、単に辛いからだ。身体がだるくなってくる。

 とりあえず録画したテレビ番組を見ているが、なかなか辛い。悔やまれるのは、所有す長年かけて集めたすばらしい音楽を聴く時間が用意できたのに、CDプレーヤーのちょっとした不具合で気持ちが遠くに行ってしまったことだ。気持ちを切らさない方法を考えよう。

 今回に関していえば、CDの音飛びは起こることはある程度わかっていた。前も音飛びを起こしたことのあるディスクだったので、覚悟はしているつもりだった。それでも、実際に飛んでしまうと思いの外ショックが大きかった。わかっているショックは避けないとそのあとの時間が辛くなる。そういう萎えCDは良さがわかる前にお蔵入りさせてしまうか、PCでリッピングして読み込みのエラー補正をするようなツールを使うかしないといけない。

 という解決策。モチベーション管理の大切さを改めて感じる今日のできごとでした。

寝る前の音楽時間を過ごしながら

 今日はPHISHのNEW YEAR'S EVE 1995というアルバムを聴いて寝るまでの時間を過ごしている。ちなみに昨日のこの時間もこれまたPHISHのTHE CLIFFORD BALLというDVDを観ていた。

 PHISHは好きなバンドで、一番好きなギタリストを挙げろといわれれば、PHISHトレイ・アナスタシオを挙げる。でも今回のブログで彼らの話をするつもりはない。彼らの音楽は聴くけども、彼らについてはほとんど知らないのだ。ギターの人以外の名前を言えといわれても答えられない。出身地や経歴も知らない。

 他にもこういう"音楽は聴くけどもその他のことは知らない"という好きなバンドが多い。あえて調べなかったのもあるし、ネットがあるから今知らなくても知りたいときにいつでも調べられると考えているのだ。しかし、初めから一貫してそうしていたわけではない。知識が必要だと考えたときもあって、調べた時期もあった。いくつかのブログを巡って最大公約数的な情報を集めていくのはあまり面白くなくてやめてしまった。調べるのは、ネットより国内盤CDのライナーノーツのほうが簡潔にまとめられていていいように思う。あえて調べない理由は少し厨二くさいので言わない。

 好きなバンドのことは何でも知りたいという考え方とは一線を画す。好き加減は聴いた時間だと思う。音楽を聴いている時間が余暇の大半を占めている人生であるが、どのバンドが長いかは答えられない。覚えていないのだ。中学高校時代だったらスピッツBOOWYだったと言えた。最近は日替わりアルバムだからすぐ忘れてしまう。ブログやtwitterに毎日記録しておいて後で見返せばわかるかもしれないけど。

 

PHISHのアルバムも終りに差し掛かる。聴きながら書いていたブログも今日はこれまでにしよう。

楽しかったことは認めようと思う

 楽しかったけど、楽しかったことにカウントしていなかったことがある。自分の中で黒歴史であると思っているからだ。それは、かつてライブドアがやっていたサービス「ねとらじ」である。

 一番盛り上っていたといわれる時期には、サービスの存在を知らなくて、 立会えなかったが、そのあとの時期でもかなり面白かった。楽しかった。休みの日には、文字通り朝から晩まで聴いていた。ウィークデーにも家に帰るとテレビは見ずに聴いていた。

 僕の人生の楽しかった場面の建前は、音楽を聴きまくったことにしているが、やっぱり、ねとらじが一番だった。ねとらじが衰退してしまってからは、うまくニコ生の雑談系配信に移行できた。この時代も楽しめた。今は何か。わからない。

高まった不安感から脱した。意識したことメモ。

 居場所がないとか、話を聞いてくれる人がいないとか、不安を吐き出した記事が続いていた。その高まった不安も何だかんだで一段落したようだ。なくなったわけではないが、気になって不安で仕方がない状況は脱した。

 楽しいことをしようといわれる。でも、楽しいことがわからなくってしまった。そんなときは、日々のやるべきことを淡々をこなそう。どこかで聞いた、これが打開に向かった要因となった考え方だった。仕事をして、お風呂に意識してゆっくり入って、余暇はラジオを聞いた。逃避的な行動(自慰など)は避けるようにした。5分単位で生活のルーティンを守ることを徹底した。決めた時間に朝の準備を開始して、出かけて、会社に着いて…。お風呂に入る時間、寝る前の薬を飲む時間も、就寝時間も守った。余暇のラジオもこの時間はこの局のこの番組と決めていた。

 あとは待った。時間が経てば何とかなっていると経験が示していたからだ。

話を聞いてくれる人いないことに気づいてしまった

 話を聞いてくれる人が周りにいないと気づいてしまって、今後の人生が不安になってきた。ニュースなどで孤独な中高年が増えて社会問題になっているとか、孤独は健康を害するし、寿命を縮めると聞くと更に心配になってくる。

 

 今までは、話を聞いてもらえなくても大丈夫だ、そもそも語ることがないから問題ないと思っていた。頭の中が考えることで一杯で忙しくて、話を聞いてもらう云々について興味がなかったのだ。

 ただ最近、少し、余裕ができてしまったのがいけない。そう、心の余裕ができてしまって手持ち無沙汰だから、孤独に気づいてしまったのだろう。

 

 仕方がないから、また忙しくしよう。問題をたくさん抱えて頭を悩ませよう。ある意味、孤独からの逃避である。不安要素のすべてに真正面から向きっていてはキャパオーバーである。一部から逃避するのも自分全体を守るためには必要だ。

出し抜くのか、助け合うのか。

 ネットには何でも載っているわけではない。

 先鋭的な視点を持っていても、ネットで語らない人もいる。むしろそういう人のほうが多いような感じを受ける。何年もかけて熟成させた考えかたを安売りしては、自分が食いっぱぐれるから。

 

 でも、linuxのフォーラムのような相互扶助的な仕組みもある。自分が試行錯誤して解決した問題の解決方法を共有する。自分が困ったら質問する。解決へのアドバイスがある。

 

 自分だけが出し抜ければいいのか、相互扶助がいいのか。

リアルで音楽の話ができたら楽しいだろうな。

 音楽を聴く。自分の居場所がなくなってしまったようなので、すがるように聴く。

 

 今日は、朝一、フリッパーズ・ギターの「海へ行くつもりじゃなかった」のアルバムを聴く。古いアルバムだ。

 音楽の話はできない。中学生になったころCDラジカセを手に入れて、それからずっと音楽は聴いているが、語れることが何ひとつない。いや、語る相手と機会がなかっただけだ。語った経験がない。ブログで一方通行の話を書く気にもならないし。

 この前、ラジオでピーター・バラカンがゲストの人と音楽の番組をしているのを聴いた。往年の名盤を紹介しあって、あの頃はどうだったとか、いろいろエピソードを披露していた。そんな話ができたら楽しいだろうな。